お前など誰も愛さない。だけど/フェミニズム占星術序説②
境界例人格障害という病気(障害)は、自分はそのままではけっして誰からも愛されないと思い込み、人に愛されるためになりふりかまわずしがみつき、絶えず人からの愛を試すのが特徴とされる。
私が大体10代の頃、世に人格障害ブームのようなものが起こり、本がたくさん出たり言及するWebサイトが多かったりして、私も知識としては知っていた。しかし、不思議な気分になったのを覚えている。何故なら、女性に生まれたなら誰だって、人に好かれ愛される努力をしないと駄目だ、そうしないワガママで傲慢な女は存在する価値すら無いというのは、当たり前に社会からしょっちゅう受け取るメタメッセージであり、素直に受け取るのがなぜ病気なのだろう、と、ここまで言語化できないにしろ、うっすらそう思っていた。
女の子だから自分勝手もいけないし、ブスやデブやババアも女失格だし、外見しか価値がないと思われているのに外見だけ良くてもしっかり「性格ブス」の烙印も待っている。
私は上記の診断名を一度も貰ったことはない。でも、いつもいつも体調が悪くて、苦しかった。親からも男からも愛されていると信じていた。でも、私が精神疾患の診断を受け、薬の副作用で風船のように体が膨らんだとき、私はいっきに全てを失った。体型のことを一番手酷く罵ったのは親だった。間抜けにも私はそこで、愛がただの支配だったことをはじめて自覚したが、本当は各種の心身症状が、20年もまえから、それを告げていたはずだった。
しかし、たとえ親の問題抜きでも、きっと私はこう思い込んできたはずだろう。私は誰からも愛されない、と。
私は私のすべてを愛してくれて守ってくれる存在が必要で、体が助けを求めていたから、あんなにも具合が悪かったのだと思う。
処女であれ、娼婦であれ、母であれ、男のミューズであれ。
そうでないと、誰ひとりとして、お前を愛さない。
誰もおまえを愛さない。
誰もおまえを愛さない。
誰もおまえを愛さない。
直接にそう言葉にしなくても、言語というのは何も言葉ばかりではない。テレビではいつも「勘違いブス」が嘲笑されている。テレビCMや中吊りや街頭広告で、太った女が笑い者になっている。金に執着する女に制裁が与えられている。
上記の境界例人格障害というものが、圧倒的に女性が多いのは、必然的なことだ。個人ではなく、社会の側が病気なのだ。
私はいつも冬の真夜中に素っ裸で外に放り出された幼児のような気持ちだった。
親子関係のせいなのだろうか、それとも関係ないのか、自分を、この世に親も帰る家もない、ひとりぼっちの、宇宙が産み落とした私生児のように感じて、いつも孤独だった。
孤独から逃げるために私は愚かにも他人に無限の寛容とやさしさを押しつけてばかりで、不幸な人を見つけるとそのときだけ急にめちゃめちゃイキイキした。不幸な人は私のやさしさを必要としてくれるからだ。自分を切り売りして歩いているぶんおかしな人から目をつけられるのも多く、たくさんの人に「豊川さんなら分かってくれると思って」と言われ、頼られ、当然の帰結ではあるが数えきれないほど危険で不愉快な思いもした。
いつも人のためにばかり動いているわりには、自分と世界との間にすさまじい隔たりを感じていた。透明なガラスが一枚あり、向こうを見ることはできるが、どうやってもあちら側にいけない。普通の人々が普通の幸せを感じて、笑ってはしゃいでいるのを、寒空の下、窓の外からながめるしかできないかのような。
人に愛されないと、必要とされないととても生きてはいけないだろうと思い込んでいた私が、なにをきっかけにそのような地獄から脱したか。この本一冊、この言葉ひとつといったシンプルなものではなく、たぶん段階的なものだったと思う。
ひとつは、精神科医に、具体的な悩みは薬で解決しないと言われたこと。それもそうだなと、私のつらさって女性であるってことが原因であるのがほとんどだなって思って、飲むのをやめた。特に変わりはなかった。
薬は飲みつづなければダメ、薬でしか治らないというのが常識である疾患だったけど、薬でも治らなかったし、やめたほうが体調が上向きになってきた。副作用が重かったこともあるのだろう。
もうひとつは、占星術、心理占星術との出会い。特にリズ・グリーンの「占星学」は衝撃だった。自分の人生に登場する人物や物事はすべて自分の心の投影であるという考えが。それは占星術や錬金術でいう「外在化」であり、仏教でいう主客合一である。(モダンな占星術は、神秘思想→ユング心理学→心理占星術という順で伝播した東洋思想も取り入れられている。)
自分は社会の歯車からはじきだされて、何の一部にもなれない。死ぬまで何かに帰属意識を感じることなどできないだろうと思っていた。
社会が私に死んでほしがってる思いが流れ込んできていたから、死んであげようと思っていた。
しかし占星術を、とくにホラリーを学べば学ぶほど、この宇宙は一個の生命体で、私はその細胞にすぎないという確信以上の実感が私の体を満たすようだった。全てが、単なる連動以上に連動しているのを感じてきた。
自分が間違いなく宇宙の一部なら、小さな共同体や社会の一部になるために無理やり自分を痛めつけたり、それが出来た出来ないで一喜一憂する必要があるだろうか。
愛されようとする必要はなく、また、誰からも愛されないと嘆く必要もない。しょせん人間って、どんな人であれ、他人である以上親からも全てを肯定されることなんてありえない。ただ生きてるだけでいいんだよという一番ほしい言葉を言ってくれるのって宇宙しかないと思う。なぜ私は生きていて、ここにいる? それは宇宙から必要とされてるから。宇宙から、愛という言葉でも定義しきれないような愛を受け取っているから、だと結論づけた。依存だけの人生が終わった。
誰も私の本心や人格の奥底を理解できない。他人には理解できない。私だけじゃない、誰でも同じだ。でも宇宙だけは私のそれを知ってる。ホラリーチャートがそれを証明している。
私がここに書いたことを私のように実感レベルで理解できる人って少ないと思う。インターネットの流行は、もうずっと科学信仰、疑似科学批判が「正しく」て、かっこよくて、それさえやっておけば間違いのない態度で、誰からも悪者にされないし、炎上なんてありえない。スピリチュアルっぽいこと、エビデンスも無いことを信じたら、フォロワーから狂ったのではないかと疑われ、フォローをはずされるだろう。横並びは安心だ。でもみんな、なんか全然幸せそうに見えない。
人から愛されなければ価値がない、という女性に課されたジェンダーロールのくびきから逃げる手段は、人それぞれだろう(一生逃げられない女性ももちろん多いだろう)。私の場合の答えがただこれだったのだと思う。
いま、私を心を支えている事実は、自分がだれの子でもなく宇宙の産み落とした私生児であることだ。そうでない子など本当は一人もいないけど。