ブルックナーの交響曲とバッハのヨハネ受難曲

ブルックナー交響曲9番はカトリックの「告白」の音楽か?
ブルックナーの交響曲をコンサートで聴いた。素晴らしかった。オーケストラの各楽器の音が隅々まで聞こえるような演奏で各楽器間の対話で音楽が進行していくように聴こえた。それには楽器の配置がマーラーが演奏していたころの写真のようなバイオリンの対向配置でコントラバスは真正面奥というようなことも寄与しているのかもしれない。
 高校生の時からよく聴いていた曲であるが、改めて聴くとこれはブルックナーのカトリックの「告白」の音楽ではないかと思う。何かの描写や音楽の作品としての音楽でなく、ブルックナーの「告白」を音化したものように聴こえてきた。
 告白とはこの場合最も深遠な奥底のその人の最も光輝く秘密で、カトリックはそれを語ることが自己の浄化、自己の放棄、救済になると説き実践してきた。
 それを司祭だけに言っていれば良かったのが、そのように自己を語る技術が発展して文学や音楽にも進出してきたように考える。
 それで同じくカトリックのモーツァルトやベートーベンと比べても、音楽が告白の基調は著しく高まっているように感じる(主観です)。
 ベートーベンはカトリックについては信奉していたか怪しいが、否定するにせよ、染み付いていてそこから自由になれるほどではなかっただろう。
 それはモーツァルトのレクイエムやベートーベンのミサソレニムスを聴いてもカトリックでいう自己の解釈学風の告白が中心のテーマではないように思われる。もっと上手く聞けばそういうところを聞き出せるかもしれない。
 同じキリスト教でもプロテスタントではどうか。プロテスタントでは告白という形態では教会で自己の放棄を迫らなかったようである。聖書のみという各自神と対話するからである。カントの批判シリーズはその一部でもあるだろう。
 カトリックの告白は形を変えて、自己を語る技術として体系化され、精神分析に活用されシャルコーやフロイトに結実した、というのがフーコーの見立てである(性の歴史一巻知への意思)。フーコーは自己の秘密を語ることで主従関係が形成されることことから自己と他者の形成を系譜的に考察している。
 さて、バッハの音楽の宗教曲はカンタータ、受難曲いとまがない。
 そこでヨハネ受難曲を聴き始め、そこにバッハのキリスト教として共通の告白というものが感じられるかどうか聴きはじめた。
 大学生の頃から聴いていた曲だが探査として聴くとまた違って聞こえるのが面白い。
 まだ前半だが、そのように思える箇所は思いつかない。
 もし見つかったら、あるいはモーツァルトやベートーベンでもそう思えるところがあったら続きを書きましょう。

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