(フーコーに興味ある人向け)性の歴史3巻の要約を作成中ですが、手戻りが多く

フーコーの性の歴史3巻の要約を作って、週一くらいで公開していこうと気楽に作り始めたのですが、結構難しくなってきました。
 私が気になっていた所だけやっていたのですが、書かれた全テキストの意味や、よくわからなかったところの再考を始めたらいくら時間があってもできません。当たり前か。
 そこまでする必要もないような気がしますが、ストア派の本を調べたり、ガレノスの解説本を広げたり、エティオピア物語を参照したり。
 プルタルコスはチラと見たけどセネカやキケロはまだ読んだと言える状態でないし。
 仲正昌樹先生の本で確認したり。すると余計わからなくなってフーコーに戻るみたいな手戻りばかりです。
 言い訳ばかり書いていてもしょうがないので少し小ネタを。
 性の歴史3巻には最後の最後の終わりに、処女(童貞)の話が出てくるのですが、読み返してみると第4章のガレノスをメインテーマにソラヌスが処女について書いていることを紹介することに気がつきました。

『女性の病気についての論考』のなかでソラヌスは、処女性の長所と短所にかんする、当時重視されたと思われる議論に言及している。 処女性を批判する人々は、排出されない体液に起因する病気と、禁欲しているので押さえつけられない欲望とを、いっそう強調する。反対に、処女性の賛同者たちは、処女であれば女性が、母親であることの危険をまぬがれるし、性の快楽を知らないからには欲望というものを知らないし、種子の保持する力を体内に維持する点を力説する。

新潮社(1987年版)pp160

と当時の学説を並べ、ソラヌスは処女性に与する:

ソラヌスとしては、処女性には難点がともないうることを認めながらも、しかし、
その処 その難点たるや、「神殿にこもって」生活して「有益な運動」をしないでいる女性にとりわけ存在している点を確認する。一般論としては、永遠の処女性は両性にとって有益であると彼は考える。性的結合は、したがって彼の考えでは、個人の健康保持を自然な根拠とするわけではあるまい。もっぱら人類を保持するという義務によってのみ、結合の営みは必要となるのである。その営みを課すのは、個人の養生生活であるよりむしろ、「自然の共通の掟」である。

と処女性が賛美されるのは、自然の共通の掟さえなければ処女でいた方が良いということになります。さてフーコーはこれをどう解釈するのか。

〔紀元前〕 四世紀の医学的で哲学的な思索によってすでに明瞭に表明されていた諸主題の展開のなかで、どのように、ある種の屈折変化が生じたか、がはっきり見てとれるのである。
・・・
性の営みの危険は、・・・・むしろ、人体およびその機能の一般的な不安定性がもたらす影響として記述されている。

と性行為はギリシア時代には快楽を活用・禁欲して自己や他者の統御に役立たせていたことから変わり、ローマ帝政期ではむしろ性行為は養生論的に人体に害を及ぼすので「掟」がないならば、性行為はない方が良いということに変わってきた。そして、このテーマは3巻にははっきり直接連動しているかどうかはっきり書いてないけどエティオピア物語の愛・純潔・結婚のテーマと合流してくるはず。そして第4巻で、さらにキリスト教では処女・童貞がテーマとして設定されるのである。
 とまたぐと3巻の内部のリンクの確認、2・4巻の内容ももう一度確認しなくてはいけなくなるということです。
 というわけで中途半端ですいませんが現況報告でした。

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