井上陽水と宮沢賢治(3) 『御免』
井上陽水の歌と宮沢賢治の作品
井上陽水の歌には宮沢賢治の作品に関連するものがある。その最たる歌は『ワカンナイ』である。宮沢賢治の死後、トランクの中から発見された手帳に残されたメモ。それが日本人なら誰でも知っている『雨ニモマケズ』。『ワカンナイ』は『雨ニモマケズ』へのアンサーソングになっている。🎵君の言葉は誰にもワカンナイ🎵この陽水のフレーズはみんなの気持ちを代弁しているようだ。
次なる歌は『背中まで45分』。1組の男女の出会いがホテルのロビーであった。ラウンジバーでお酒を飲み、部屋に着いてから男の手が女の背中にいく。それまでに要する時間が45分。こういう歌だ。「別にいいんじゃない?」そう思われる人もいるだろう。しかし、気になることがある。それは45分という中途半端な時間である。一時間でも二時間でも三時間でもいい。それなのに、なぜ45分なのか。
ひとつ思いつくことがある。それは『銀河鉄道の夜』の終わりに起こった悲しい出来事だ。主人公のジョバンニは親友のカムパネルラと楽しい銀河鉄道の旅を終えて、現実の世界に戻ってきた。すると、カムパネルラが川で溺れてしまったというのだ。みんなでカムパネルラの行方を探すが見つからない。その様子を見ていたカムパネルラのお父さんの諦めが潔すぎる。
・・・俄かにカムパネルラのお父さんがきっぱり云ひました。「もう、駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、170頁、筑摩書房)
ここに謎の45分が出てくるのだ。これが『背中まで45分』に繋がったかどうかは不明だが、気になる数字の一致ではある。
『御免』
さて、今回紹介したい陽水の歌は“御免”という歌だ。タイトルとは裏腹に、とてもリズミカルで、一度聞いたら忘れられない歌である。
どうも、陽水のお宅には突然の来客があったようだ。全く予期せぬことだったようで、陽水は困ってしまう。お茶もコーヒーもない。もちろん、お茶菓子もない。とりあえず出せるものといえば水だけだ。水を差し出しながら、陽水は謝る。「御免」 要するに、こういう歌なのだ。
この歌は1974年、ロサンジェルスで録音されたアルバム『二色の独楽』に収められている。どういう状況、あるいはどういう心境のときに作られた歌なのか? この歌を初めて聴いたとき、なんとなく不思議な気がした。つまり、超有名なミュージシャンになった陽水が“御免と謝ること”をコンセプトにして曲を作る理由がわからなかったのだ。
ここでまた、賢治の作品を見てみよう。賢治の書いた手紙に次のような文章がある。
不12 〔日付不明〕 沢里武治あて 封書 〔封筒なし〕
先日は折角訪ねて下さったのに病后何かにうちへも遠慮で録なおもてなしもせずまことに済みませんでした。・・・ (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十四巻、464頁、筑摩書房)
なるほど、“御免”である。陽水がこの手紙に触発されて“御免”を作ったかどうかはわからないが、やや気になる。それは、「ごめん」が漢字の「御免」で出てくるからだ。
私たちも日常会話で謝るときに「いやあ、ごめん、ごめん」と言う。ただ、この文章では、「御免」はひらがなの「ごめん”だ。私たちが“ごめん”あるいは“ごめんなさい”というとき、御免という漢字を頭に浮かべながら話をするだろうか? 普通はひらがなの“ごめん”だろう。私はそうだ。ところが、賢治の童話『種山ケ原』では漢字の御免が出てくる。
「どうか御免ごめ御免ごめ。何なじょなことでも為さんす。」(『【新】校本 宮澤賢治全集』第八巻、107頁、筑摩書房)
岩手の方言なので、読みは“ごめん”ではなく“ごめ”である。しかし、漢字はまさしく御免だ。
ひょっとして・・・ またもや、そう思ってしまう。
「わかんない」の岩手弁「わがんない」も『種山ケ原』に出てきていた。陽水は賢治ファンなのかもしれない。
それでは、御免。
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