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「宮沢賢治の宇宙」(22)「雨ニモマケズ」は「雨ニマケズ」だったのか?


「銀河のお話し」の状況設定と同じです。 「銀河のお話し(1)」をご覧下さい。 https://note.com/astro_dialog/n/n7a6bf416b0bc

「雨ニモマケズ手帳」で見つけた謎

今年の3月は寒い。2月より寒いんじゃないだろうか。雪ニモマケズ、といきたいところだ。そんなことを考えながら天文部の部長、星影輝明はまたもや放課後、天文部の部室に向かった。部室に入ると一年生部員の月影優子が来ていた。輝明の姿を見て優子が早速質問してきた。
「あっ、部長。質問があるので、待っていました。」
優子の質問はいつも鋭い。少し緊張して、輝明は優子に聞いた。
「今日はどんな質問かな?」
「宮沢賢治のことです。」
「おや、銀河の話じゃないんだね。」
「部長、確か賢治の「雨ニモマケズ手帳」を持ってましたよね。」
「うん、あるよ。花巻の宮沢賢治記念館の売店で買ったやつだ。今日もポケットに入っているよ。」

そう言って、輝明は「雨ニモマケズ手帳」を優子に差し出した。賢治が1931年(昭和六年)の秋に使っていた手帳のレプリカだ。

図1 (右)「雨ニモマケズ手帳」のレプリカ。(左)手帳に書かれてある内容の説明書。

「わあー、思ったより小さな手帳ですね。」
「それはそうと、どんな質問かな?」
「はい、〔雨ニモマケズ〕のことなんです。」
「手帳を開いてごらん。賢治の〔雨ニモマケズ〕のメモがあるよ。」
数ページめくると〔雨ニモマケズ〕のメモが出てきた(図2)。

図2 「雨ニモマケズ手帳」に載っている〔雨ニモマケズ〕のメモ。最初の二行では、「モ」があとから付け足されたように見える(赤丸で示した箇所)。なお、〔雨ニモマケズ〕は手帳に書き付けられたメモなので、普通の詩とはみなされていない。そのため、作品名は〔 〕で括ってある。『【新】校本 宮澤賢治全集』 第十三巻(上)、覚書・手帳 本文篇、521頁)

「あっ、これです。」
優子はマジマジとそのメモを見ている。
「やっぱり、そうなんだ。」
そう言って、優子は首を傾げている。
「何か気になることでも?」
輝明が聞くと、優子は意外な発見について話し出した。

「はい、この前、賢治関係の本を本屋さんで立ち読みしていたら、この〔雨ニモマケズ〕のメモのコピーが載っていたんです。私が気になったのは、出だしの部分です。」
「まさに雨ニモマケズと始まるところだね。」
「はい。私が気になったのは、最初の二行です。なんだか、「モ」があとから付け足されたみたいで。」
「なるほど、そう言われればそうだね。」

輝明は優子の指摘に感心した。と同時に、この指摘は優子の発見だと思った。なぜなら、今まで読んだ賢治関係の本では、この指摘をしているものはなかったからだ。

「モ」の意味

雨ニモマケズ。この言葉に出てくる「モ」は係助詞だ。」
「部長、すごいです! 係助詞(かかりじょし)なんて言葉、久々です。」
「うん、たまには教養を見せないとね。」

ここで、輝明は部室の本棚にある『広辞苑』(第七版、岩波書店、二〇一三年)を取り出した。「モ」を調べると、次の説明があった。

体言・副詞・形容詞や助詞を受ける。「は」とは対比される語で、「は」は幾つかの中から一つを採り上げる(それ以外を退ける)語であるのに対し、「も」はそれを付け加える意を表す。

「これを読むと、本来ならば「雨ニモマケズ」の前に対比されるべき事象がないといけないね。つまり、次のような構造だ。
○○ニマケズ  ← まずこの文章が必要
××ニモマケズ ← 付け加えを示すために「モ」が入る

この論理だと、「雨ニマケズ」で始まっていても問題はない。」

「賢治はまず「雨ニマケズ」と書いた。それはありえますね。書き進めるうちに「雨ニモマケズ」の方がいいと思って、「モ」を付け足したんでしょうか。」

付け足された「モ」

「モ」を入れた方が、文章に落ち着きは出る。賢治はそのことに気がついたんじゃないかな。なぜなら「雨ニマケズ」だと六文字だけど、「雨ニモマケズ」とすると、日本人の好む七文字になる。俳句や短歌でわかるように日本人は七五調を好む。」
「そういえば、七五調にすると文章の流れがよくなりますね。賢治の場合、童話や詩を弟や妹に読み聞かせをしていました。読みやすさを意識して作品を書いていたんでしょうか。」
「そうだね。賢治は朗唱が好きだったようだ。」

輝明は手帳の別なページを開いて指をさした。

「この部分を見てごらん。「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」。この部分、元々は「ヨクワカリ、ワスレズ」になっていた。それが「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」に変更されているんだ(図3)。中村稔は賢治が音数律的な効果を考えたからだと言っている(『宮沢賢治ふたたび』中村稔、思潮社、1994年、174頁)。」
「やっぱり、音読のしやすさですか。」

図3 (上)「雨ニモマケズ手帳」に「ヨクワカリ、ワスレズ」が記されている部分(右頁の青い線で囲った部分)。(下)「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」に変更されていることがわかる(右頁の赤い線で囲った部分)。『【新】校本 宮澤賢治全集』 第十三巻(上)、覚書・手帳 本文篇、522頁。

「行ッテ」の重要性

「次は東ニ病気ノコドモアレバで始まる東西南北の箇所を見てみよう。」
「ここもよく引用される部分ですね。」
「賢治の優しさが滲み出ている部分だ。」

輝明は東西南北で揃っていない箇所があることを指摘した。
「優子も気づいていると思うけど、最後の文章「北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ」だけ揃っていない。」
「行ッテ」問題ですね。」
「そう、ここだけ「行ッテ」がないんだ。だけど、「行ッテ」を入れるべきだという指摘がある(『わたしの宮沢賢治』宮澤和樹、ソレイユ出版、2021年、第2章)。」
「確か、「行ッテ」が赤い鉛筆で書き入れられている箇所があるんじゃなかったでしょうか?」
「そのとおり、ここだね(図4)。」
輝明は左頁の上を指差した。

図4 「雨ニモマケズ手帳」の複製版。左頁の上部に赤鉛筆で“行ッテ”と書かれている(赤い点線で囲った部分)。なお、『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、覚書・手帳 本文篇、523頁ではモノクロで示されているので、判別が難しくなっている。

輝明は説明を続ける。
「『【新】校本 宮澤賢治全集』ではこの「行ッテ」を戯書と判定しているんだ(『【新】校本 宮澤賢治全集』 第十三巻(上)、覚書・手帳 校異篇、137頁)。」
「ええっー? 戯書(ぎしょ)って、ざれがき、イタズラ書のことですよね。それはない、という感じです。だって、こんなにしっかり書かれているのに。」
「宮澤和樹は赤い字で書かれた「行ッテ」は戯書ではないと主張している。その根拠はいくつかある。まず、賢治は「行ッテ」という言葉をとても大切にしていたことだ。これは賢治の弟・清六の証言なので確かだ。その背景には賢治が信奉していた法華経の思想がある。法華経では「行う」ことの重要性が説かれているからだ。「雨ニモマケズ手帳」では、〔雨ニモマケズ〕のメモの後に、南妙法蓮華経の大曼荼羅が書かれている(図5)。宮澤和樹はこの大曼荼羅に着目している。四名の菩薩の名前が書かれているんだけど、みんな名前に「行」の文字が入っている。」
「ホントだ。これは知りませんでした。」
「四つの「行」。だから、東西南北にも四つの「行ッテ」を入れる。賢治ならそうすると思うよ。」

図5 「雨ニモマケズ手帳」に記された〔雨ニモマケズ〕の10頁目の部分。南妙法蓮華経の大曼荼羅が書かれているが、四人の菩薩の名前にそれぞれ「行」の文字がある。『【新】校本 宮澤賢治全集』 第十三巻(上)、覚書・手帳 本文篇、525頁。

新たな〔雨ニモマケズ〕へ

「こうしてみると〔雨ニモマケズ〕は急いでメモされたものだと思う。なにしろ、推敲のあとがほとんど見られない。」
「そうですね。最初の2行に「モ」を入れたことと、さっきの「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」への変更ぐらいでしょうか。」
「推敲魔としで知られていた賢治にしては珍しいことだ。もう体調もだいぶ悪化してきた頃だから、そもそも、推敲どころではなかったのかもしれない。」
「大急ぎで心象スケッチを書き残したという感じでしょうか。」
「そうだと思う。それに、このメモが書かれていたのは原稿用紙じゃない。小さな手帳だ。手帳の紙面は非常に小さい。実際、「雨ニモマケズ手帳」のサイズは縦12.5センチメートル、横7.2センチメートルしかない。この手帳に長い一行を書きつけるのは難しい。最後の文章「サウイフ モノニ ワタシハ ナリタイ」を四行に分けて書いているぐらいだ。」
「そうですね、1行で書かれていても不思議はないぐらいの分量です。」

三行を単位にする

「オリジナルの〔雨ニモマケズ〕を読んでみると、もう一つ気になることがある。」
「それは?」
「うん、文章の単位が不揃いなのが気になる。」
「言われてみれば、そうですね。四行だったり、三行だったり、さらには二行や五行もあります。賢治は字下げをしたり、詩の体裁については結構気にする人だったように思います。」
「そこで、基本のユニットを三行に揃えたらどうかと思うんだ。」
「それだと、賢治らしい、整然とした美しい詩になりそうですね。」
「とりあえず、タイトルは「モ」を抜いて、〔雨ニマケズ〕にしてみた。前半部分の修正はこんな感じだ(図6)。」

図6 賢治のメモ〔雨ニモマケズ〕の前半部分を新たな構成の〔雨ニマケズ〕にしたときの修正箇所。文字の削除は < > で示した。

「最初の方に出てくる「丈夫ナカラダヲモチ」は3番目の段落に移したんですね。」
「ご飯を食べて丈夫になるということなので、違和感はないと思う。」
「はい、大丈夫です。」
「あと、後半は「行って」問題の解決も含めてやってみた(図7)。」
「これでスッキリですね。」

図7 賢治のメモ〔雨ニモマケズ〕の後半部分を新たな構成の〔雨ニマケズ〕にしたときの修正箇所。文字の削除は < > で示した。

〔雨ニマケズ〕

「じゃあ、最後に全体を見ておこう。タイトルは〔雨ニマケズ〕だ。賢治さんが喜んでくれるといいんだけど。」
「部長、大丈夫ですよ! 賢治さんは自分の作品のすべては未完成だと思っていたんですから。」
「オーケー、じゃあ読むよ。」
輝明は声高らかに朗唱し始めた。

雨ニマケズ
風ニマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ

慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
丈夫ナカラダヲモチ

アラユルコトニジブンヲ入レズ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ
看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ
行ッテ
ソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテ
コハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
行ッテ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

野原ノ小サナ萓ブキ小屋ニヰテ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ


ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズクニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

「賢治さん、ありがとう。」
輝明はそっとつぶやいた。

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