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ゴッホの見た星空(23) 番外編:遠近法をもう少し

森の景色で遠近法

1882年8月20日 日曜日、テオ宛の手紙を見てみよう(『ファン・ゴッホの手紙 I』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、351頁;手紙番号258)。そこに遠近法を楽しんだことが書かれている。

前景に大きな緑のブナの木の幹、地面には枯れた葉、白い少女の姿が描かれているものだ。ここでかなり難しかったのは、さまざまな間隔で立つ木々を、遠近法上で幹の位置や相対的な厚みが変化する幹の間の空間を、明瞭に、その間に空気を感じさせるように描くことだった。要するに、人がここで呼吸でき、歩き回れるように、そして森の香りがするように描くことだ。

この文章に書かれた絵を見ておこう。《林の白服の少女》という絵だ(図1)。ゴッホは林を利用して遠近法の使い方を会得したようだ。1882年には《林の白服の少女》の他にも、林の中を描いた絵が数枚ある。

図1 《林の白服の少女》 1882年8月、ハーグ、油彩 キャンバス 39.0×59.0 cm、グレン・ミューラー美術館 https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧#/media/ファイル:Girl_in_White_in_the_Woods.jpg

《屋根》に見る「一点消失法」

1882年はゴッホにとって遠近法の年だった。この年、早くも「一点消失法」で絵を描いた。水彩画の《屋根》という作品だ(図2)。オランダのハーグにいた頃、アトリエから眺めた光景だ。

図2 水彩画の《屋根》。1882年7月21日。ハーグ。39×55 cm。個人コレクション。(下)「一点消失法」の効果を見るために補助線を入れたもの。空に飛んでいるカラスは点線の丸印で示した。 https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧#/media/ファイル:Vincent_Willem_van_Gogh_016.jpg

実は、この絵は《林の白服の少女》を描く、1ヶ月も前に描かれている。屋根とか通りとか、真っ直ぐな線がある場合、遠近法を使うのはそれほど難しくはない。一方、林の場合、遠近法に利用するべき直線を見出しにくい。そのため、《屋根》は練習という位置づけだったのかもしれない。

《屋根》は左右非対称にあるものを一枚の絵に収めている。左には家の屋根が存在感を出して、絵の左半分の大半を占めている。一方、右は大きな建物もなく、奥は草原。これだけ非対称なのに、「一点消失法」に用いられる消失点は絵の中央部、やや上に設定されている。そのため、左右非対称ながら、絵に落ち着きが出ている。

このテクニックはまさに《夜のカフェテラス》で用いられたものと同じだ。日中に描かれた絵なので、空に星はない。ところが、一羽のカラスが飛んでいる。カラスの位置を見てほしい。やや右寄りに描かれている。左の屋根の重さを右寄りのカラスが相殺してくれているかのようだ。このテクニックも《夜のカフェテラス》に見ることができる。なぜなら、《夜のカフェテラス》では星空がやや右側に寄っているのだ。

《屋根》の絵を見たとき、なぜか既視感を覚えた。それは、描かれている題材はまったく異なるのに、絵の構成と用いられている遠近法(一点消失法)が同じだったからなのだろう。《屋根》と《夜のカフェテラス》。二つの絵は、音楽で言うと、コード進行とアレンジが同じ曲。そんな関係にあるように思える

カラスの飛ぶ絵

《屋根》には一羽の飛んでいるカラスが描かれている。カラスは世界各地で神聖な鳥と位置付けられてきた歴史がある。ギリシア神話では太陽神アポロンに使える鳥であった。また、日本でも三本足の八咫カラスは日本神話で活躍した(神武天皇の東征の際、松明を灯して助けた)。また、日本サッカー協会のシンボルマークにも採用されている。

一方、色が真っ黒で大型の鳥なので、カラスを嫌う人も多い。実際、悪魔の化身として物語に出てくることもある。結局のところ、カラスという鳥は微妙な立ち位置にいる。そのせいかどうかはわからないが、カラスが飛んでいる絵を見ることはほとんどない。そのため、《屋根》を見たとき、少し驚いた。

しかし、ゴッホの絵にはカラスをもっと大胆にフィーチャーした作品がある。それは《カラスのいる麦畑》である(図3)。オーヴェル=シュル=オワーズで亡くなる直前に描かれた一枚である。

図3 《カラスのいる麦畑》 1890年7月。油彩、キャンバス、50.5×103.0 cm。ファン・ゴッホ美術館所蔵。 https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧#/media/ファイル:Vincent_van_Gogh_(1853-1890)_-_Wheat_Field_with_Crows_(1890).jpg

荒れ模様を思わせる青黒い空を数十羽のカラスが麦畑の上を飛んでいく。道らしきものが緑と茶色で描かれているが、この絵では遠近法がうまく使われていない。そのためか、この絵を見ると、不安な気持ちになってくる。

何が小林秀雄を動かしたのか

この絵から最も大きな影響を受けた日本人は評論家の小林秀雄(1902-1983)である。彼が書いた『ゴッホの手紙』を読むとそれがわかる(新潮文庫、2020年、7-8頁)。そこには上野で開催された名画展覧会での出来事が書かれている。

・・・ゴッホの画(え)の前に来て愕然としたのである。それは麦畑から沢山の烏が飛び立っている画で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった。尤もそんな事は、後で調べた知識であって、その時は、ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、とうとうその前にしゃがみ込んで了(しま)った。・・・僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいたように思われる。

この小林の文章を読む限り、カラスは吉兆の使いではなさそうだ。ただ、小林が動けなくなったのは麦畑の上を飛ぶ数十羽のカラスだけのせいではない。絵全体の持つオーラがそうさせたのだろう。

ゴッホのたった一枚の絵が、小林をして『ゴッホの手紙』という優れた評論を書かせた。画の持つ力の大きさを感じないわけにはいかない。

この絵では遠近法がうまく使われていないので、観る人に不安な気持ちを与える。ストレートな感動というよりは、不協和音がどくどくと伝わってくる感じだ。青黒い空を舞う数十羽のカラス。空と対照的に不気味に黄色い麦畑、そしてよくわからない緑と茶色の道。これらだけで、十分不安定な題材となっている。そして、さらに不安定な遠近法が追い打ちをかけてくる。これらが相まって、《カラスのいる麦畑》はネガティブな意味での感動を観る人に与える。一方、観た人はそれが感動なのか、何物なのかわからない。だから、小林のようにしゃがみ込む。

ゴッホ展で絵の前にしゃがみ込んでいる人を見かけたら、そっとしておいてあげよう。

追記:今回は星空の話が出てこなくて、恐縮です。絵画は全くの素人ですが、ゴッホの絵を見ていると、遠近法に関心を持つようになりました。

<<< 関連するnote原稿 >>>
「ゴッホの見た星空」(15) 《夜のカフェテラス》の遠近法https://note.com/astro_dialog/n/n4e511095ddc2

ゴッホの見た星空」(16) 《夜のカフェテラス》で最後の晩餐をhttps://note.com/astro_dialog/n/n5354fd1f648b

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