ゴッホの見た星空(5) ゴッホは緑色と赤色の夜空を見ていた
ゴッホはなぜ「大熊座が緑とバラ色にきらめいて」と言ったのか?
《ローヌ川の星月夜》の話をしたとき(note「ゴッホの見た星空(1)」参照)、ゴッホが弟のテオに宛てた手紙を紹介した。一八八八年九月二九日ごろの手紙である(手紙番号 691)。
正方形に近い三〇号の絵のスケッチを同封する。ついに星空をほんとうに夜のガス灯の下で描いた。空は青緑、水はロイヤルブルー、地面は薄紫だ。街は青と紫。ガス灯は黄色で、水面の反映は金褐色から緑がかったブロンズ色までのグラデーション。空の青緑色のひろがりには大熊座が緑とバラ色にきらめいて、その淡く控え目な輝きはガス灯のどぎつい金色と対照的だ。(『ファン・ゴッホの手紙 II』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、334頁)
ここで、次の文章を今一度吟味してみたい。
・・・ 空の青緑色のひろがりには大熊座が緑とバラ色にきらめいて、・・・(『ファン・ゴッホの手紙 II』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、334頁)
まず、「空の青緑色のひろがり」。これは何を意味するのだろう。
次に、「大熊座が緑とバラ色にきらめいて」。きらめいているのは大熊座の星なのだろうか? それとも大熊座なのだろうか?
大熊座といえば北斗七星だが、もしきらめいているのが星なら、緑色の星とバラ色の星がなければならない。ところが、note『ゴッホの見た星空』の第三話と第四話で説明したように、緑色やバラ色の星は存在しない。
実際に北斗七星の星を見ると、7個の星はいずれも白っぽく見える(図1)。したがって、「大熊座が緑とバラ色にきらめいて」は、北斗七星の星々が緑とバラ色にきらめいているわけでときはない。実際、そんな色の星は存在しないのだ。
すると、残る可能性はひとつ。きらめいているのは星ではなく大熊座になる。星座がきらめくというのはどういう現象だろう?
今一度確認すると、ゴッホは 「大熊座が緑とバラ色にきらめいて」と言っている。しかも、その前にある文章には「空の青緑色のひろがり」とある。つまり、大熊座の方向の夜空の色が青緑色やバラ色に見えるというのだ。そんな馬鹿なことがあるかと思われるかもしれないが、実は、それは起こりうる。それを実現させてくれるのは「夜光」、地球の大気の発光現象である(図2、図3)
夜空は紺色に見えることが多いように感じる(図4)。結局、夜空も、星と同様に、色を識別する対象ではないように思ってきた。しかし、実はそうではなかったのである。
夜光で変わる夜空の色
夜空は発光しているのだ。私たちが夜空を眺めるとき、必ず地球の大気を通して眺めている。つまり、星空の前景として、地球の大気がある。地球の大気が発光していると、私たちの目にはその発光が見える。それが夜光である(夜天光とも呼ばれる)。
発光している高度は地表から数10キロメートルから100キロメートルぐらいの中間圏と呼ばれる領域である。ただ、発光の程度は弱い。だから、私たちは夜空の色に気づかないことが多いのだ。しかし、ゴッホは夜空の微妙な色、あるいはその変化を敏感に感じとっていたのだろう。
夜光の色は大別すると緑と赤である。緑は高層大気に含まれる窒素イオンが放射する光の色であり、赤は電離していない酸素原子が放射する光の色である。可視光帯で放射される主な大気光:酸素原子([O I]630.0, 636.4、[O I]557.7、[N I]519.9、Na I 589.0, 589.6、H I 656.3、OH 700.0オングストロームから長波長側。ここでI は電離していない中性原子を表し、数字は放射されるスペクトル線(輝線)の波長(単位はナノメートル)。 [ ] で示されているのは禁制線(量子力学的には遷移が禁止されているが、密度が低い場合、ある確率で放射されるスペクトル線)を意味する。詳しくは『理科年表』(丸善出版)の「夜天光」の項目を参照されたい。なお、O Iは“オーワン”と発音する。Iはアルファベットのアイではなく、ローマ数字のI(1)である。
高層大気がどのような“刺激”(放射光や電子との衝突など)にさらされているかで、夜光の色(緑か赤)が決まる。したがって、大熊座の方向の夜空が緑や赤い色(バラ色)にきらめいて見えることは十分にあり得る話なのである。
そもそも「空の青緑色のひろがり」という表現は、ゴッホが《ローヌ川の星月夜》を描いた夜は、夜光が強かったことを示していると考えてよい。そうでなければ、ゴッホは普通に濃い青(紺色)の夜空を見ていたはずである。
ゴッホは星空が好きだった
それにしても、ゴッホの眼力はすごい。星の色もそうだが、夜空の淡い色まで見極めてしまうからだ。最後にもうひとつ、ゴッホの手紙を見ておこう。
1888年9月9日 日曜日 ならびに9月14日 金曜日 (妹の)ウイレミーン・ファン・ゴッホ宛
今、絶対に描きたいのは星空だ。よく思うのだが、夜は昼間よりもずっと色彩豊かでこの上なく鮮やかな紫、青、緑の色調を見せてくれる。よく目を凝らしてもらえれば見えるが、星のなかにはレモン色のものもあり、バラ色、緑色、忘れな草の青色の輝きもある。そして言うまでもなく、星空を描く際には黒っぽい青の上に白い点々うぃ置いただけでは明らかに不十分だ。(『ファン・ゴッホの手紙 II』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、316-317頁)
いやはや、脱帽である。ゴッホの描く星空を理解するには、こちらも気合を入れてかからないとダメそうだ。