見出し画像

一期一会の本に出会う(17) 幸田文の『季節の手帖』

幸田文

幸田文と聞いて、ピンとくる人は少なくなったかもしれない。幸田文(図1;1904-1990)は名随筆を書くことで有名な小説家である。父も小説家で、幸田露伴(1867-1947)である。私自身、二人の名前は知っていたが、実は作品を読んだことはなかった。

図1 幸田文。 https://ja.wikipedia.org/wiki/幸田文#/media/ファイル:Kouda_Aya.jpg

先日、書店を散歩していたら、幸田文のエッセイ本が平積みされていた。その中から、『季節の手帖』(平凡社。2010年)を選んで買ってきた。この本は「大切な心を取り戻す「幸田文の言葉」シリーズ」の一冊である。『季節の手帖』の他に、『しつけ帖』、『台所帖』、『着物帖』、『旅の手帖』、『どうぶつ帖』のラインアップがある。やはり、かなりの健筆家だったようだ。

『季節の手帖』(図2)は4章構成で、第1章の「春」から第4章の「冬」まで、各章には約10のエッセイが収められている。

図2 幸田文の『季節の手帖』

第1章の「春」は「蜜柑の花まで」というエッセイで始まる。読み始めてすぐに感じた。

「幸田文はすごい人だ」

なぜそう思ったのか説明しよう。

自然にあるものと交流できる力

「蜜柑の花まで」には山形へ小旅行したときの話が出てくる(9頁)。

あちらではまだ梅の蕾がようやく膨れ、桜の幹もいくぶん「てり」を持ち始めたかなという気候である。

梅の蕾が膨れてきたことならわかると思う。しかし、桜の幹の様子まで感じとるのは至難の業だ。少なくとも私には無理だ。

そして、今度は雪が降り出したときの話だ。

かなり濃く降る。

雪の振り方を「濃い」と表現するのは初めて聞いた。私は雪国生まれで、ホワイトアウトになるような猛吹雪も、ハラハラと落ちてくる淡雪も知っている。しかし、雪の振り方を「濃い」と言ったこともなければ、聞いたこともない。ただ、雪の振り方が「濃い」と言われれば、相当な振り方であることは誰にもわかるので問題はない。

身の回りにあるものと交流できる力

第2章の「夏」を見てみよう。「夏終わる」というエッセイの書き出しの部分だ(84頁)。

木の葉にやつれが見え始めた。浴衣の肩も色があせた。扇風機の羽にはよごれがたまっているし、ガラスのものより瀬戸物のはだのほうがよくなった。

木の葉、浴衣、扇風機の変化。これは良い。たぶん、私もわかる。しかし、ガラスや瀬戸物の肌の具合は見て取れないと思う。

幸田文は「生きている」木の幹の具合がわかるだけではなく、「生きていない」ガラスや瀬戸物の具合も見て取れるのだ。ガラスや瀬戸物は生命活動を行なっていないが、周囲の空気とは交流している。それが表面の微妙な変化を生み出すのだろう。それを私たちは敏感に感じ取れるだろうか? 

芸術家の才能

ふと思ったのだが、秀でた芸術家には幸田文と同様な才能があるのではないかということだ。自然や身の回りにあるものと交流する力。この力が大きいほど、彼らは素晴らしい作品を残す。

思い浮かぶのは童話作家・詩人の宮沢賢治(1896-1933)だ。童話『土神ときつね』では女性に擬人化された樺の木を巡って、土神ときつねが頑張る話だ。また、童話『シグナルとシグナレス』では、信号機の淡い恋の物語が展開される。男性役は東北本線のシグナル、女性役は岩手軽便鉄道のシグナル。二人の会話は爽やかだ。賢治にとって樺の木もシグナルも友達のようなものなのだろう。平気で会話を楽しんでいるとしか思えないからだ。この賢治の才能は幸田文の才能と同じである。

絵画の世界だと、オランダのフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)だろうか。ゴッホはひまわりとどんな会話をしたのだろう(図3)。

図3 ゴッホの《ひまわり》。1888年8月、フランスのアルルで描かれた作品。15本のひまわりがいる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ひまわり_(絵画)#/media/ファイル:Vincent_Willem_van_Gogh_127.jpg

ゴッホとひまわりとの会話。私にはわからない。少なくともゴッホは至高の時を15本のひまわりと過ごしたのだろう。名画である。実は、東京で開催されたゴッホ展のとき、《ひまわり》のレプリカを購入した(図4)。ときどき眺めてはため息をついている。

図4  我が家にある《ひまわり》の絵。