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ゴッホの見た星空(8) 《夜のカフェテラス》の星空

《夜のカフェテラス》

ゴッホの《夜のカフェテラス》を見てみよう(図1)。1888年の9月に描かれた絵である。賑やかさも、派手さもない。しかし、穏やかな時が流れているような暖かみが感じられるカフェである。もし自分がこの通りを歩いていたとしたら、ちょっと寄ってコーヒーを飲んでいきたくなるお店だ。ワインのほうがよいかもしれないが。

ところが、このカフェはゴッホには遠い存在だった。常に金欠病に喘いでいたゴッホは食事代にも事欠くありさまだった。当然のことだが、ここでコーヒーを飲むお金がなかった。この絵を描く直前に友人の画家ウジェーヌ・ボック(第5章参照)がアルルにやってきた。ボックはゴッホを誘い、このカフェを訪れた。そして、そのあと、《夜のカフェテラス》が描かれたという(『ゴッホへの招待』朝日新聞出版編、朝日新聞出版、2016年、31頁)。

図1 《夜のカフェテラス》。この絵に描かれているカフェは南仏アルルのフォリュム広場にある。現在でも「カフェ ファン・ゴッホ」という名前の喫茶店があり、観光名所のひとつになっている。1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、81 × 65.5 cm。クレラー・ミュラー美術館所蔵。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gogh4.jpg

《夜のカフェテラス》に見える星空の謎を解く

ゴッホは南に向いてこの絵を描いた。したがって、夜空に見えているのは南の空である。ただ、すぐにはどの星座が描かれているのかわからない。なぜなら、北斗七星のような目立つパターンがないからだ。しかも、喫茶店と向かいにある建物に阻まれて、見えている空はV字型の狭い範囲でしかない。

 とりあえず、《夜のカフェテラス》をWIKIPEDIAで調べてみたら、次の説明があった。

夜空に描かれている星座は「やぎ座」と「けんびきょう座」の一部とする説もあるが、「みずがめ座」と言う説もあり定かではない。いずれにせよ秋の星座である。

 また、石坂千春(大阪市立科学館・学芸員)は実際にこのカフェテラスを訪れた報告書を書いている(『ゴッホの見た星空〜南フランスを訪ねて〜』大阪市立科学館研究報告 第26巻、19-26頁、2016年)。それによれば、見えている空はほぼ真南の空で、広さは高さが30度、幅も30度とのことである。9月中旬の夜9時ぐらいだとすると、「やぎ座」が見えるとしている。実地見分は信頼できるので、重要な情報だ。

 こうしてみると、《夜のカフェテラス》に見える夜空には、「やぎ座」を含めて、秋の星座が描かれていると考えてよい。ただ、どうも定説はないようだ。こんな有名な絵なのに不思議である。おそらく、難点は「やぎ座」、「けんびきょう座」、「みずがめ座」という星座にありそうだ。なぜなら、これらの星座には目立つ1等星や2等星がないからだ。

 とりあえず秋の夜半前の南に見える星座ということで、《夜のカフェテラス》に描かれた星座を絞り込んでいくことにしよう。

三つの案

案1

「みずがめ座」、「やぎ座」、そして「けんびきょう座」の三つの星座にある星々で《夜のカフェテラス》の夜空を説明してみよう。まず、図2のような解決案があることに気がつく。これを案1とする。右上に見える一番明るい星には「わし座」のθ星が該当する。この案1だと、絵に描かれた星の大半は説明がつく。

図2 案1:「みずがめ座」、「やぎ座」、そして「けんびきょう座」の星々と同定してみた図。この中で一番明るい星は右上にある星A(赤丸で示してある)で、「わし座」のθ星である。絵の左中の上端にある明るい星Bは同定できないので「?」で示してある。
上の図:国立天文台 https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2021/09.html 2
021年9月の星空なので木星と土星がプロットされている。

案2

今度は、右上の明るい星を「わし座」のθ星ではなく、思い切って「わし座」のα星、アルタイルにしてみよう。実は、これでも多くの星が説明できるのだ(図3)。これを案2と名付ける。

図3 案2:絵の中で一番明るい星A(赤丸で示してある)を「わし座」のα星、アルタイルにした場合。絵の左中の上端にある明るい星Bは同定できないので「?」で示してある。
上の図:国立天文台 https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2021/09.html 2
021年9月の星空なので木星と土星がプロットされている。

しかし、この案2の場合でも、絵の左中の上端にある明るい星(「?」で示してある)は説明できない。この状況は図2に示した案1と同じだ。

案3

そこで今度は左中の上端にある明るい星Bを「わし座」のα星、アルタイルにしてみよう(図4)。これで図2と図3にあった「?」は消える。そして、右上の明るい星は「へびつかい座」のα星、ラサルハグエに該当する。これで明るい二つの星、AとBも解決する。この案を案3と名付ける。

図4 案3:絵の左中の上端にある明るい星B(左側の赤丸)を「わし座」のα星、アルタイルにした場合。右上の明るい星A(右側の赤丸)は「へびつかい座」のα星、ラサルハグエになる。下に見える三つの星Cは同定できないので「?」で示してある。
上の図:国立天文台 https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2021/09.html 2
021年9月の星空なので土星がプロットされている。

こうして、絵にある明るい二つの星の候補は特定できた。しかし、この案では新たな問題が発生する。星空の下側にある縦に三つ並んだ星は今まで「けんびきょう座」の星が対応していた(案1と案2)。ところが、案3では、該当する星がなくなってしまうのだ。

正解はあるのか?

ここまで、三つの案を提示してきた(図2、図3、および図4)。図中に示した二個の星(AとB)および二個の構造(CとD)に該当するものを表1にまとめた。

最も素直なアイデアは図2に示した案1である。左上の明るい星が何かという謎は残るものの、特徴D(2個並んだ星;図では楕円形で示されている)があるのが強みだ。また、その他の星々も比較的無理なく説明できる。

案2と案3では「該当なし」が、それぞれ二つある。そのため、案1に比べると、正解である可能性は低い。

三つの案の比較をまとめた表

さて、思案のしどころだ。

ゴッホの星空への想い

こうして《夜のカフェテラス》の星空の謎解きは、やはり難しいことがわかった。しかし、個人的には私は《夜のカフェテラス》は大好きな一枚である。描かれた星空は謎に包まれているが、絵全体は優しさに包まれているように感じるからだ。

ゴッホはこの絵をカフェのある現場で描いたと言っている。

1888年9月9日 日曜日 ならびに9月14日 金曜日 (妹の)ウイレミーン・ファン・ゴッホ宛
ここ数日、夜のカフェの外観を描いた新しい絵にかかりっきりで、手紙を書くのを中断していた。カフェテラスには酒飲みたちの姿が小さく見える。巨大なランプがテラスや店頭、舗道を黄色く照らし、通りの舗石の上にまで灯りを落としていて、舗石は紫とバラの色調に見える。星の散りばめられた青い空の下に街路が伸び、街路沿いの家々の切妻屋根は濃い青か紫で、緑の木も立っている。そう、これは黒のない夜の絵だ。美しい青と紫しかなく、これを背景に、灯りで照らされた広場は薄い硫黄色と緑がかったレモンイエローで色づけされている。夜を現場で描くのはとてつもなく楽しい。昔はデッサンだけ描き、後日デッサンをもとに油彩を描いたものだ。でも僕は現場で直接描いてよかったと思っている。(『ファン・ゴッホの手紙 II』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、317頁)

 ところが、悩ましいデッサンがある。

ゴッホのスケッチが新たな謎を呼ぶ

実は、《夜のカフェテラス》のデッサンが残されているのだ(図5)。ゴッホはいきなり絵の具を使って《夜のカフェテラス》を夜の街で描きあげたわけではなかったのか?

図5 《夜のカフェテラス》のデッサン。
https://www.artpedia.asia/work-café-terrace-at-night/

最終的に仕上がった絵(図1)と比べてみると、夜空が狭いように見える。そして、その狭い夜空を見てほしい。なんと、ひとつも星が描かれていないのだ。また、街路樹の木もない。さらに、人の数も配置も異なる。こうなると、《夜のカフェテラス》は作られた絵の一枚になる。《星月夜》と同じだ。

 では、ゴッホは星空をどのようにして仕上げたのか? 写実主義ということであれば、このスケッチに星空の様子も描かれているべきである。それでなければ、見たままの星空を絵に描くことはできない。できるとすれば、方法はある。それは星空の様子を別の紙にメモしておくことだ。しかし、ゴッホがそうしたかどうかはわからない。いずれにしても、《夜のカフェテラス》の星空の謎は別な意味で深まってしまった。

 この謎の解明は今後に持ち越すことにしたい。何かよいアイデアがあればご教示を!


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