天文俳句(10) 暗黒の列車走るやイーハトブ
暗黒列車
天文といえば星。では、星は俳句ではどのように詠み込まれているのだろうか。まずは、歳時記を見てみようと思い立ち、近くの書店に出かけた。すると、歳時記ではないが、面白いタイトルの本に出会った。『てにをは 俳句・短歌辞典』(阿部正子 編、三省堂、2020年)だ(図1)。
パラパラめくっていたら、「暗い」という項目があった。天文学者は商売柄、「暗い」という言葉が好きだ。そこで、その項目を読んでみることにした。すると、そこに、暗黒という言葉が紹介されていた(290頁)。
春の夜の暗黒列車子がまたたく 西東三鬼
暗黒列車。これはいったい何なのだろう?
ダークマター
実は、天文学者は、「暗い」もそうだが、「暗黒」という言葉には特に敏感である。それは、ダークマター(暗黒物質)が宇宙に潜んでいるからだ(補足を参照)。
私たちの住んでいる銀河(天の川銀河、あるいは銀河系と呼ばれる)は、太陽のような星が2000億個もあり、大きさは10万光年もある(1光年は光が一年間に進ことができる距離で、約10兆キロメートル)。
私たちの住んでいる天の川のような銀河は、ダークマターの重力で集められた普通の物質が星々を生み出したことで誕生した。普通の物質だけでは、質量が不足していて、銀河の誕生は大幅に遅れてしまう。つまり、現在、私たちが天の川に住んで、人生を楽しんでいるのは、ダークマターがあるおかげなのだ。
西東三鬼
それにしても、なんとも不思議な句だ。西東三鬼(さいとうさんき:1900-1962)は岡山出身の俳人だが、新興俳句運動を牽引し、山口誓子(第4章参照)が創刊した「天狼」にも参加した人だ。『西東三鬼 全句集』(西東三鬼、角川ソフィア文庫、2017年)の最初に掲載されている句集『旗』の自序にはこう書かれている。
或る人たちは「新興俳句」の存在を悦ばないのだが、私はそれの初期以来、いつも忠実な下僕である。 (6頁)
西東三鬼の新興俳句に対する覚悟がよくわかる言葉だ。彼の第1句集『旗』は1940年に刊行されたものだ。『旗』に収められている句を見ると、その斬新さがわかる。
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
算術の少年しのび泣けり夏 西東三鬼
さて、暗黒列車とは何だろう? 夜行列車のことだろうか。仮に夜行列車だとしても、客車の中の電灯をすべて消すわけではない。したがって、心象の中に浮かんだ列車の風景なのだろう。子がまたたくのが、はたして微笑ましい光景なのかどうかは、よくわからない。
暗黒の列車走るやイーハトブ
ここで、ふと思い出したのが、宮沢賢治の詩、「青森挽歌」だ。『春と修羅』に収められている。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる(『【新】校本 宮澤賢治全集』第二巻、筑摩書房、1995年、156頁)
客車の中には電灯が灯っている。だから、窓ガラスには自分の顔や車内の様子が映る。まるで、水族館の水槽を眺めるような光景になる。実際、車内には灯りが灯っている。
車室の五つの電燈は
いよいよつめたく液化され(『【新】校本 宮澤賢治全集』第二巻、筑摩書房、1995年、157頁)
したがって、賢治の夜行列車に疑問はない。ところが、西東三鬼の暗黒列車はよくわからないままだ。ただ、わかることも大切だが、わからないことも大切である。書店で手に取った本の中に、暗黒列車という謎の言葉に出会った。それだけでも幸運である。
本との出会いは一期一会。私は迷わず『てにをは 俳句・短歌辞典』を買うことにした。目的としていた歳時記も数冊選んで一緒に買いこみ、家路を急いだ。
月明に安堵するときもある
さて、そのとき買った歳時記関連の本に『短歌俳句 自然表現辞典 歳時記版』(大岡信 監修、遊子館、2002年)があった。この本を見ていたら、もうひとつの「暗黒」に出会った(399頁)。
昇りつく二万呎に月明の空ありと言ひ暗黒を翔ぶ 宮柊二(みや しゅうじ)
月明かりに至る道行(みちゆき)を暗黒と表現した歌である。宮柊二(1912-1986)は新潟生まれの歌人である(北原白秋の門下)。
暗黒列車も味わい深いが、こういう歌もまたよいものだ。
補足:この宇宙の成分
この宇宙の成分表を見てみよう(図2)。成分は次の三種類である。
私たちが知っている元素でできた物質:わずか5%。
ダークマター:26.5%
ダークエネルギー:68.5%
ダークマター(暗黒物質)とダークエネルギー(暗黒エネルギー)はその正体がわかっていない。
暗黒に支配されたる宇宙かな
もう、こう詠むしかない。ちなみに、ダークという言葉は“暗黒”というより、“わからない”という意味で使われている。私たちは「わからない」宇宙に住んでいるのだ。