見出し画像

ASTROSCOPE かんわ3

地球温暖化通り越して、地球熱帯化といってもいいかもしれない。灼熱化か。

こんなに外が熱いなんてことがあっていいものか。夏が来るのが怖くなった。熱中症に気を付けてクーラーの元で生活しているけれども、冷房を使えば使うほど外の気温も上がっていく、これじゃあ負の連鎖じゃないかと頭が痛くなる。

週に一度、畑に向かう。畑というのは、大学の端で学生と地域住民とで運営している農園のことだ。もう4年近く、この農園に通い続けている。しかし、敷地内の工事があり移転することになってしまった。現在は「畑じまい」と、新たな農園に向けた準備にいそしんでいる。最初、農園がなくなると聞いて大変にショックを受けた。代わりの土地に新しく農園を作ると決まったはいいものの、コロナの制限によってなかなか対面活動が厳しい中で貴重な拠り所になったこの畑や、その周りの花壇や、いろんな人が共に時間を過ごした場所が、工事によってなくなってしまうと考えるともったいなく感じる。土をいじると、いろいろなことを考える。

都会にいて土を見る機会なんてそうそうない。別府に住んでいた時も別府公園以外土のある地面を思い出せないので、土のある場所は現代社会の街構造のなかに非常に限られた場所でしか見ることができないものなのかもしれない。街路樹の根元や公園、神社、お寺、学校などの限られた空間の中でしか見ることができない。どこもアスファルト、コンクリート、人工物に囲まれている。自分が子供の頃から考えても、地元にあった森が老人ホームになり、畑が宅地になり、竹林はコンビニになった。

今度、出身高校に人工芝グラウンドができるという。摩耗するプラスチックが雨水を伝い、下水へと流れ、海へと還る。マイクロプラスチック問題よりも、あの水はけの悪いグラウンドが使えるようになることの方が大事なのだ。プラスチック製品が広まったのは第二次世界大戦下の金属不足に代わる需要の高まりという。1940年代以降に急速に広まったと考えると、今や生活のいたるところに存在するプラスチックは大衆に広まってからまだ100年も経っていない素材ということになる。

マイクロプラスチックが人体に与える影響は、まだよくわかっていなさそうである。しかし、たった100年前にはほとんど使われてこなかったものが今や何億何兆トンと製造されていて、それらが摩耗を繰り返して生物に取り込まれるということは極めて「不自然」な状況であるという。人体に対する影響云々も深刻だけど、問題はプラスチックの普及や生活における影響のスピード感にもあると思う。今やプラ製品を見ない日、触らない日はないと言ってよいだろう。今触っているPC、キーボード、マウス、文房具、すでにプラ製品だらけだ。100均で買った皿も器もプラ製品。ジャージや寝間着も化学繊維だ。最近話題になった香害問題では、香りの元がプラスチックの膜で覆われているなんて話もあった。洗顔や歯磨き粉にもプラスチックは史料されているという。

このようにプラ製品と思わしき製品と「マイクロプラスチック」の語を検索にかけると環境省からの情報が検索上位に入ってくる。そうだよな、だってこのままだと2050年には海洋中のプラスチックごみの重量が魚の重量を超えるという試算(環境省、2018年)すら出ていて、つまりとてつもないスピードでこれらの問題が深刻化しているのだ。

脱プラしない選択肢、なくない?

しかし、実際問題すぐに脱プラするのは非常に難しいだろう。生活のありとあらゆるレベルにプラスチックが存在している。少しでも少なくする努力は必要だが、まず生活においてプラスチックを避けて生活するのは至難の業ではないか。削減できるところはなるべく使わないということ、レジ袋断るとか……

なんで急に環境の話をするかというと、マイクロプラスチックが治療中の特性と関係しているのではないかといわれたからだ。結論から言えば、専門家ではないから「一切そんなことはない」とは言えないが、限りなく全く関係ないか、証拠不十分のため証明できないという部類の噂話である。そもそも専門家でもない人間が、他者の健康問題や特性に「このせいで、疾患になる」といったことを説くのは、完全にバウンダリーを超えた一言である。マイクロプラスチックのせいで、自分のような特性をもつ人が増えたというのは妄想に近い話であり、仮にそれが実証されて正しかったとしても、そもそも、「障害」というものがとても社会的なものであるということも考えるべき話で、誰が「健常者」なのか?そして、特に自分のように見かけではわからないような「特性」は、投薬以外にも様々な工夫によって「困り」に対応し、生活している。困りはマジョリティ社会への適応によって引き起こされているといってもいいかもしれない。こんな話をされること自体、障害差別への犬笛としか思えず、非常に参っている。環境要因も決してゼロではないようだが、それを既に持っている人に向かって解いても馬に念仏、立て板に水、殆ど意味のないことである。マイクロプラスチックを減らそう、とだけ言えばいい話で、疾患や特性について言及する必要はない。

こういう一連のやり取りを経験して、自分の特性についてオープンに話すことを止めた。相談できる相手には何度か相談したり、話したりしているが。バウンダリーをどこに引くかは、その都度自分で決めるしかない。自分のことを守れるのは自分だけである。

そしてマイクロプラスチック、こっちもダメだ。生活の中でどうにか、プラスチックをなくさなくてはいけない。本当は、工事によって増やされるべきは砂や金属やプラスチックで建てたビルではなく、木々や河川やはだしで歩けるフカフカの土を、安全に踏める環境ではないか。
思うだけで何か具体的な行動に打って出るわけでもなく、クーラーの元でキーボードをたたいている身で大口をたたいているが、危機感だけは日増しに募っていくばかりだ。

なんかいい案があったら教えてほしい。


いいなと思ったら応援しよう!