見出し画像

守るべきは「エロ」なのか

私はコミケのスタッフもやったことがないし、運営の中身もよく知らないので、「コミケの価値」を大上段に論じるつもりはありません。あくまでもコミケの外から、部外者として、なぜコミケが必要とされているのか、私が思うことを書きます。

コミケの外部からは、コミケで頒布・取引されているのは「エロコンテンツ」とか「ペドフィリア」「ロリコン」なコンテンツだと思われがちです。そのため、「オタクは世間から迫害されている」という被害者意識も出てくるのでしょう。しかし、本質はエロとかロリコンといったものではないと思います。もし「エロが素晴らしい」のがコミケの価値なんだとしたら、「僕たちは存在する」と訴えるExistの人たちも出てこなかっただろうし、国が「クールジャパン」だと称することもなかったのではないでしょうか。

私は、コミケが文化だと思われているのは、一つには、多様な性を包括しうるからではないかと思います。コミケ参加者の中には、LGBTQ+の人もいるし、腐女子と呼ばれる、百合やBLなどの愛好者もいます。もう一つには、一次作品をブレイクダウンした二次創作によって、一次創作の価値をさらに広げる機能もあるのが、良いところではないでしょうか。

よく、コミケに出ている作家でも「エロを表現するのが自分の仕事だ」と信じている人がいて、それは結構なのですが、なぜかエロ表現とは全く関係のない、若年女性支援にちょっかいを出している人がいると聞き、それは職務に関係ないことだと感じます。さらに言えば、エロい表現になることは、やがて性を理解するための過渡期の状態としてはありうるものではありますが、エロそれ自体を守るのは、少し違うような気がしています。

性を理解するために、エロくなる必要がないとなれば、その方が恥ずかしくないので、都合がいいと感じる人もいます。また、若年女性支援をする立場では、エロが表出されない環境の方が安全だという事情もあります。もし表現の自由を守るというのならば、エロくなくても良いという立場も守られてしかるべきです。

性をもっと理解したずっと先の方に、これを書いている私すらまだ知らないフェミニズムの地平があります。今やオタクとフェミニズムが合流したコンテンツも作られているのだから、2023年にもなって、「エロを守りたい」として仁藤さんにマンスプレイニングをかまして、仁藤さんの活動を邪魔するのはやめてもらいたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!