【短編】ホワイトボード
ガタガタと音を立てながら机を直し、教室を出て行く教師たち。その声を背に、高藤は文字と図の書き殴られた黒板に向き直った。おもむろに黒板消しを取り、端からゆっくりと撫でていく。白い線は面に、チョークの粉が塗り広げられていった。
一度ではとても、消しきれそうにない。
書き込みが多いのは、議論が進んだ証だ。とは言え、こうも厚く塗りたくられてしまうと、綺麗にするには少々手間が掛かるだろう。
二つある黒板消しを駆使し、消しては窓の外で粉を叩き、消しては叩きを繰り返す。明日になれば、子どもたちが使うのだ。教える側としては、こういった場面でも模範的な行動を示さねばならない。
それに。
「きみもお疲れさま、だね」
会議が白熱すれば、文字を書く手にも力が籠もる。今日は書記役の高藤だけでなく、皆が席を立ってはチョークを掴み、誰かの書いた文字を塗りつぶす勢いで己の意見を書き込んでいった。教頭が書いた時など、力を入れすぎてチョークが折れたほどだ。
そうして暴力的なまでに叩いたり引っかかれたりしたというのに、黒板はその場をじっと動かず、彼らの行為を受け入れていた。
労おうともいうものである。
高藤は表面に傷がないか確かめながら、できる限り優しくチョークの粉を落としていく。静かに作業を続けていると、慌ただしい足音が近付いてきた。
「……?」
思わず教室の出入り口を振り返った瞬間、扉が勢いよく開く。
「タカせんせ!」
「……大山先生。廊下は走らないでくださいよ」
言葉が、溜息と共にこぼれた。そんな高藤の様子に構わず、大山は興奮冷めやらずまくし立てる。
「今事務の人が言ってたんだけどよ、ホワイトボードがいるんだと!」
「え?」
「裏校庭に入り込んだらしいんだよ」
「どこかから逃げた子じゃないんですか?」
言いながら、高藤はゆっくりと黒板に向き直る。
まだ手入れが終わっていない。
「いや、どうにも野生種らしくてな。もう皆大興奮で。是非捕まえようって」
「野生種って人慣れしてないじゃないですか。そんなにホワイトボードが欲しいなら、ブリーダーに頼んだ方が」
「よ、さ、ん」
凄みをきかせ寄ってきた大山に、思わず高藤は身を仰け反らせる。
「それに、一台でもホワイトボードがいれば、毎度黒板のある教室を借りなくてもよくなるじゃないか。席の位置が違うだの荷物が落ちてただの、文句を言われずに済むし」
「それは……」
まぁ、一理ある。
この学校は黒板がそろっている方だが、それでも授業で使う最低限の部屋にしか置かれていない。教師たちが会議だの何だのやりたいと思ったら、どこかしらの教室を借りるしかなかった。文句が出ないようにまんべんなく利用しているが、毎回何かしらの苦情は出る。
「ホワイトボードなら筆記に力もいらんし、移動できるし、両面に書けるし!」
「そうかも知れませんけど。あまりここでそういうこと言わないでくださいよ。この子に失礼じゃないですか」
高藤は言いながら、詫びるように黒板を撫でた。黒板は僅かにカタカタと音を立てたが、暴れる様子はない。
基本的に温厚なのだ、黒板は。
「で、わざわざ僕の所に来たのはなんなんです?」
「いや、今皆で捕獲作戦の真っ最中なんすけど、これがまたからっきしで」
「だから?」
「その、タカせんせならーって」
大山は言い訳がましく、両手の人差し指を突き合わせる。大の大人――しかも大山のようなガタイの良い教師がそれをやると、あざといを通り越して浅ましくしか見えない。
「ホワイトボードは専門外です」
素っ気なく答え、高藤は黒板の手入れを再開する。
実際、専門外なのだ。今まで高藤が在籍した学校はどこも黒板が主流だったし、まして野生種のホワイトボードなどそうそう見かけるものでもない。自分が行ったところで役に立つとは思えなかった。
「事務の人も頑張ってくれてるんすよ?」
恨みがましい大山の声に、高藤の動きが止まる。
「事務の方って……割とご高齢じゃありませんでした?」
「そうですよ。それが学校のためにと体を張ってですねぇ」
「何であなたが行かないんですか」
非難の声を上げると、大山は情けない顔になった。
「行きましたって、真っ先に。んで、真っ先に叩かれて轢かれて逃げられて、教頭から戦力外通告ですよ。散々です」
「…………」
返す言葉が見つからない。
「じ、じゃ、俺は先に行ってるんで!」
気まずい空気に耐えられなくなった大山がバタバタと教室を出て行った後も、高藤はしばらく無言で立ち尽くしていた。大山一人が騒いでいるなら放置するところだが、事務方を巻き込んでとなると、静観するわけにもいかない。
溜息と共に、黒板消しを置いた。
「ごめんね。後でまた、続きをやりにくるから」
チョークの粉の残る面をそっと撫で、高藤は教室を後にした。
外に出ると、大人たちの騒ぐ声で件の場所がすぐに分かった。足取りも重く現場へ向かう。
裏校庭とはいえ、三百メートルトラックが引けるくらいの広さはある。周りはぐるりとフェンスで囲まれているから、出入り口用に切られた扉をくぐってしまえば、確かに出口が分からなくなってしまうかも知れない。
とはいえ、ホワイトボードが外へ出られなくなったのは、別の理由からだろう。
「……陸脚だなぁ」
逃げ回るホワイトボードを目で追い、高藤は独りごちる。
二本脚で蹄は球形、胴体が回転するタイプのホワイトボードである。これが壁脚タイプのものであったなら、捕獲は大分容易だったはずだ。壁脚は黒板と似た種類で、気性は荒いが脚が遅い。大山が叩かれただの轢かれただの話していた時点で種別は分かっていたものの、だからどうしろという話である。
ホワイトボードは大勢に追いかけ回され、怯えと興奮で周りが見えなくなっている。あれでは誰が行こうが危険だ。叩かれたり轢かれたりならまだしも、一歩間違えば指などを切断する恐れもある。
とはいえ、あまりにもホワイトボードが不憫だった。うっかり迷い込んだせいで追いかけ回されれば、怖いのは当然である。身を守るためならなんだってするだろう。捕獲云々はさておき、何か手を打たなければ。
「先生方! 離れてください!」
声を上げ、ホワイトボードを包囲しようと駆け回っていた教師陣に近付く。
「高藤君! 君も手伝いたま」
「教頭先生も離れてください。こんな大勢で迫ったら興奮して暴れますから」
有無を言わさず教頭まで制止すると、高藤は教師陣を一カ所に集めてホワイトボードから出来るだけ距離を置かせた。
「タカせんせ、これじゃ逃げても追いつけな」
「どうでもいいですそんなこと」
大山の不満を切り捨て、高藤はホワイトボードに向き直る。ホワイトボードはガタガタと体を揺すり、せわしなく板面を回転させていた。
大分興奮している。
「ごめんね、驚かせて」
高藤はゆっくりとホワイトボードに呼びかけた。
「そっちに行っても良い?」
ホワイトボードは高藤の言葉に反応してはいるものの、未だ両脚を交互に持ち上げ、全身を揺らしている。
「分かった。寄らないから」
「タカせん」
高藤は問答無用で大山を小突き、黙らせる。振り返りもしなかった。
しかし、この先の策はない。ホワイトボードが落ち着いて逃げてくれればそれでも良いが、腹いせに向かってくる可能性もある。
せめて何か道具があれば。そう思っても、ふさわしいものはこの学校にない。
ここにいるのは黒板ばかりなのだ。
パタパタと、足音が近付いてくる。制止しようとした高藤が振り返ると、目前にペンが差し出された。
「マーカー、買ってきました!」
「あ」
お使いに出されていたらしい職員から渡されたのは、高藤が欲していたそのもの。
ホワイトボードマーカーだった。
「ありがとうございます」
太軸のペンを手に、高藤はホワイトボードを振り返る。相手に見えるように、ペンを軽く振った。興味をそそられたか、ホワイトボードは板面の回転を止め、蹄をくるくる回して左右に移動しながら、高藤を窺っている。
「そっちに行っても良い?」
ホワイトボードは板面を半回転させてから戻し、肯定を示した。高藤は周りを制して一人踏み出すと、ペンを振りながらホワイトボードに近付いた。
先程とは別の意味で興奮気味のホワイトボードは、板面をパタパタと振りながら、高藤の側に寄ってきた。板面を撫でてやると、足取りも軽く周りを駆ける。高藤が先程追ってきた人間とは違う相手だと分かっているらしい。
「君は聡明な子だね」
マーカーのフタを取ると、ホワイトボードは高藤の前でぴたりと止まった。あちこち移動してきたのだろう。板面には所々傷が付いている。高藤は労るように、優しくペン先を滑らせた。
『拠点はあるの?』
ホワイトボードは全身を左右に振り、否定を示す。
『うちの学校に来る?』
左右とも前後とも付かない不規則な移動。迷っているらしい。
『書かれるのは好き?』
板面が半回転して戻った。思わず笑みがこぼれた。
『なら、ここは気に入って貰えるかも知れないね』
ホワイトボードは板面をくるりと回し、今度は蹄を回転させて高藤の周りを巡った。かと思うと、体を寄せてきてせがむように板面を動かす。
どうやら、懐かれたらしい。
『ありがとう。よろしくね』
書いてから板面を撫でてやり、ホワイトボードの動きが落ち着いたのを確認すると、高藤はやっと他の者達を呼び寄せた。
ようやく戻ってきた教室で、高藤は黒板の手入れの続きを始めた。黒板消しを持って窓と黒板を行き来する内に、廊下の向こうから、キュルキュルと音が近付いてくる。
「うん?」
音は、高藤のいる教室の前で止まった。廊下に出て行くと、ホワイトボードが鎮座している。
あれからペン置きを付けられたホワイトボードには、板面いっぱいに文字が書かれていた。筆跡はバラバラで、教師たちがこぞって書き込んだのが窺える。
「消して貰えなかったのか」
ホワイトボードは小刻みに板面を揺らしている。どうにもむず痒そうだ。
「困った人達だねぇ。おいで。消してあげるから」
苦笑しながら、高藤はホワイトボードを教室に招き入れた。
終。
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