【短編】ニミヤ様
集落の鐘が打ち鳴らされている。
生まれて初めて聞く轟音に、否応でも急き立てられる。音は集落を囲う谷にぶつかり、反響して、ますます大きくなった。まるで触れられそうなくらい厚みのある音に背を押され、ひたすらにロニーは走る。集落の奥へ奥へ、谷の根元の洞穴へ。
赤茶けた岩肌にぽかりと空いた暗闇に飛び込むと、淡い黄緑色の光がふわりと動いた。ロニーはその光を頼りに鉄格子をつかみ、手探りで扉に向かう。逆光で見えない苛立ちを抑え、鍵をこすりつけるようにして鍵穴を探した。
かみ合わせの悪い鍵を無理やり回し、扉を開ける。光がひょこひょことロニーの元に近づいてきた。
「ニミヤ様、早く。逃げるんだ」
ロニーが腕を伸ばすと、その生き物は迷うことなく彼の両腕に飛び込んだ。しなやかな動きと対照的な硬質の表皮は、ひやりと冷たい。だが、宝石のような体の内側から発せられる光が、焦りに呑まれるロニーの心をなだめるように、やさしく明滅していた。
その生き物の種を知るものはいない。全体に楕円形で短い四つ足があり、細長い耳が頭の両側から垂れ下がる姿はウサギを彷彿とさせるものの、まるで人の手で加工された宝石のような体は、とても自然の生き物には見えなかった。
――誰にも知られてはいけないよ――
脳裏に、祖母の声がよみがえる。それは、長老をはじめ大人たちが繰り返した、集落の掟。
谷は恵みが少ない。だが、こんな不毛の地でも何とかやってこれたのは、ニミヤ様がいたからだ。守り神を失うわけにはいかなかった。だからこそ、ロニーは敵襲を知らせる鐘の音を聞いて、真っ先にこの洞穴に向かったのだ。
ニミヤ様を抱いて飛び出すと、明暗の差に目がくらんだ。思わず歩が止まる。しかし、草木も生えぬ不毛の地で隠れられる場所は限られる。ロニーはおぼつかない足取りで、間近に建つ家に向かった。壁にぴたりと背を預け、ニミヤ様を抱きしめる。
警鐘は止み、代わりに人々の悲鳴と怒号が飛び交う。嗅ぎなれた砂の香りに、鉄の臭いが絡みつく。一呼吸ごとに、侵略者の存在が濃密になる。
逃げなければ。逃げなければ。
衝動的に、谷へと駆け込む。だが。
「子どもが逃げるぞ!」
谷には何もない。岩壁に挟まれた荒れ地が続くだけだ。そこで動くものがあれば、容易に知れてしまう。
大人の速度に幼い体が抗えるはずもなく。頭部に衝撃が来たと思ったときには、すべてが暗転していた。
背中がひりつく。何度来ても、この感覚には慣れない。早く済ませてしまいたいが、適当に選ぶとニミヤ様が機嫌を損ねてしまう。
甘ったるい匂いが喉の奥にまで張り付く。これもまた、慣れないものの一つだ。集落には、花はおろか植物の類がほとんどなかったのだから無理もない。
目視でざっとアタリをつけ、良さそうなものに手を伸ばす。その動作で傷をつけてはならない。花びらに触れるのもご法度だ。ほかの花を探す羽目になり、ニミヤ様どころか、庭師の誹りも免れない。
宝物に触れるよりも慎重に、茎を二本指で挟む。手のひらで花の底を包むように持ち上げ、花弁の隙間、その奥底まで見通さんと、ゆっくりと手首を回す。
手のひらからこぼれんばかりに咲き誇る赤い花。花弁には僅かな撚れもなく、縮みもない。朝露をはじき、自身から豊かな蜜を零しそうなくらいに瑞々しい。
そうしてじっくりと花を観察していると、背後で舌打ちがなされた。何よりの誉め言葉。
これなら大丈夫。花を繋ぐ命の鎖に、ロニーは迷うことなく鋏を入れた。
「ロニー。ロニー!」
不意の呼びかけに体が痙攣する。それでも、花を持つ手がどこかに触れぬよう、体は後ろに引いていた。頭を巡らし、声の主を探す。
「姫さま?」
豊かな巻き毛と贅沢な衣装に身を包んだ少女は、生垣に服がこすれるのも構わず駆け寄ってくる。唇が震え、今にも泣きだしそうなその顔は、ロニーがこれまで見たことのないものだった。跪くのも忘れ、呆然と立ち尽くす。
「ウサちゃんが!」
少女はすがるようにロニーの腕を掴むと、そのまま走り出さん勢いで引き寄せる。こんな時だというのに花に傷がつくことを気にしながら、導かれるままにロニーは駆けた。
戦利品に混じる見たこともない生物に、王国の長は興味を示した。とりわけ姫がいたく気に入って、その付属物だったロニーは、ニミヤ様の世話係として最悪の運命から逃れた。
そのニミヤ様に何かあれば、運命の糸は容易に切れる。
飛び込んだ部屋の奥。深紅のソファの上でうずくまるニミヤ様を見て、ロニーは言葉を失った。
淡く燐光を放つ背に、いくつもの瘤ができている。小石を固めたようなそれは鈍い緑色をしており、ニミヤ様の呼吸に合わせ、燐光を吸い上げていた。
「ニミヤ……さま?」
ロニーの呼びかけに、ニミヤ様がのそりと顔を上げた。鼻を動かし、ロニーの手元に目を向ける。咄嗟に持っていた花を差し出すと、ゆっくりと食べ始めた。いつものように、花を品定めする様子はない。
「大丈夫なの?」
「わから、ない」
得体のしれぬ不安に、言葉遣いを気にする余裕もない。
そもそも、ニミヤ様がものを食べることを知ったのも、ここに来てからなのだ。花を好んで食べるなんて知っていたら、とてもあの集落では奉り続けられなかっただろう。
ただ、その代償にニミヤ様は神聖を奪われ、権威者の愛玩動物へと成れ果てた。そう思うと、どうにもやるせない。確かに集落より待遇は良いかもしれない。だが、それが本当にニミヤ様のためになったのか。ロニーには判断する術がない。
現に、弱っているニミヤ様を前に、何ができるか分からない。
息をするのも苦しそうに見え、ロニーは思わずニミヤ様の背を撫でた。瘤はあちこちから噴き出していて、避けて触れるのは難しい。小指のわきが瘤の根元に当たり、その僅かな衝撃で、瘤はぐらりと揺れた。
「あっ」
「きゃあっ」
咄嗟に手を伸ばしたが間に合わず、瘤は固い音を立てて床に転がった。それを皮切りに、他の瘤も次々と背から零れ落ちていく。ロニーは慌ててニミヤ様の背を検めたが、傷跡はおろか、出血の類も見当たらない。
心配をよそに、ニミヤ様はロニーの手にある花の残りを食み始めた。その勢いたるやすさまじく、ちぎれた花弁の欠片が床に振りまかれるほどだ。元気そうな姿に安心したのもつかの間、傍らで姫が頓狂な声を上げた。
「ど、どうしました?」
「見て!」
少女の手の中に、ニミヤ様の瘤だったものがうごめいていた。よく見れば床に転がった瘤も同様で、すべてが淡く黄緑色の光を発し、短い四つ足に長い耳を備えていた。
「かわいい」
表情を綻ばせる姫の手の中で、新たな命は彼女の手袋を食んでいた。他の個体も同様で、親ニミヤ様の食い散らかした花びらを必死に奪い合っている。
「大変。早くご飯を用意してあげて!」
「はっ、はい。ただいま!」
ロニーは反射的に立ち上がると、もつれる足で庭園へ向かった。
「あの子がいい!」
威勢のいい少女の声に、傍らの紳士が破顔する。彼の目配せに応じ、ロニーは示された宝石ウサギ――玉兎を抱き上げた。柵をまたいで店に戻ると、カウンターに置かれた小さな籠に、玉兎を移す。
「うわあ。この子、すっごくおおきい!」
後から入ってきた少女は、そんなロニーの傍らに鎮座する玉兎に走り寄った。ウサギは少女の勢いをなんら気にすることなく、クッションの上でくつろいでいる。
「これは見事だ。この子も売り物かい?」
「いえ。ニミ……この子は一番の古株で、うちの看板ウサギなんですよ」
会計を終えて帰りゆく親子連れを、ロニーは店の門まで見送った。その背が遠くなるまでと下げていた頭を、ゆっくりと上げる。
城下町の中央広場には、様々な用事を持った者たちが集う。服屋に向かう貴族たち、昼食を求める庶民、散歩を楽しむ人々……。彼ら彼女らの傍らに、昼の日差しを鮮やかに跳ね返す、黄緑色の輝きがあった。
その煌めきをぼんやりと眺めていたロニーの視界に、肩掛けカバンを下げた男が駆け込んでくる。男は大げさな動きで皆の注目を集めると、カバンから紙の束を取り出した。
「ごうがいー号外だよ!」
たちまち男の周りに人だかりができる。紙面に目を落とした人々から零れ落ちる不安の声に、「姫様が……」という声を聞き取ったロニーは、呼ばれるように自分も号外売りの男の元へ向かった。
紙面には、姫が病に伏したことが仰々しい文体で綴られていた。
王室の事情は、民であっても容易に触れられるものではない。つまりは眉唾物である可能性が高いと分かっていても、ロニーは動悸が早まるのを抑えられない。文字を目で追いながら店に戻り、ニミヤ様の後ろに掛けられた絵を見やる。
古びながらも威厳を保つ額縁に、幼い姫が玉兎を抱く肖像画が収まる。ロニーの知る姫はここまでだ。今の彼女がどんな姿をして、どんな日々を送っているのか、知る術はない。知っている相手の不幸に心を痛められたとして、そこまでだ。出来ることはない。
ロニーは号外を畳むと、カウンターに置いた。新聞はその日のうちに、ニミヤ様の玩具になった。
側近が倒れた。
庭師が倒れた。
大臣が倒れた。
号外売りの声が、毎日のように広場を揺らす。あまりに続くので、ロニーは途中から買うのを止めた。
町のそこかしこで憶測が飛び交い、不安が見えない澱となって溜まりゆく。慰めを求め、住人たちはこぞって玉兎を買い求めた。死の暗雲が見え始めた王国の中で、黄緑色の煌めきは、最後の希望の光となった。
しかし、いよいよ王妃が倒れたという号外が飛び、遂には王が倒れたという声が響いた。慌ただしい馬車の音が、それを止めようとする兵士の怒号が続いた。不安と混乱で発された音が、昼夜問わず王国を包む。ロニーはなすすべもなく、薄暗い店内でニミヤ様を抱きしめる。かつての守り神は、静かに鼻を動かした。
まどろみから目覚めると、すべての音が消えていた。
ニミヤ様を寝床へ戻し、ロニーは恐る恐る外へ出る。あれほど蠢いていた人の波が、かけらも見られない。
否。
ロニーは戸締りも忘れて店を飛び出し、広場に倒れる人の元へ駆け寄った。
「だいじょ……」
うつ伏せのその人を起こそうとした手が止まる。露出した肌を埋め尽くすように、酷い火傷があった。服はきれいで、地面にも炎のあった形跡はない。しかし、それが致命傷であることは、石のごとく動かない体を見れば、明らかだった。
ゆっくりと立ち上がる。呼吸も感情も乱れて体が震える。シャツを掴んだ右手が、言うことを聞かずに暴れた。
見れば、あちこちに人が倒れていた。逃げようとする体に何とか命じ、それらもまた亡骸であることを確認する。
「なん、で」
混乱に縫い留められたロニーの足元を、黄緑色の光が跳ねた。咄嗟に目を向けると、主を失った玉兎たちが、植込みの草を食んでいる。我に返ったロニーが戻った時には遅く、店で世話していた玉兎たちは、開け放された門から逃げていた。
ウサギたちのために丁寧に整えていた緑の庭は、赤茶けた地面を晒していた。
すがるように駆けるロニーをよそに、ウサギたちは大通りを跳ねていく。そこに、庭草を食んでいたウサギが、街路樹を掘っていたウサギが、辺りの建物から顔を出したウサギたちが、続々と加わっていった。
「待って!」
ロニーの叫びに、最後尾の玉兎が止まった。それはひと際大きな個体で、後姿でも見間違うことはない。
「ニミヤ様!」
ロニーの声に、ニミヤ様はほんの少し、振り向いた。
それだけだった。
再び動き出したニミヤ様は、すぐ隊列に紛れて見えなくなった。
黄緑色の輝きは、膨らみ続けるのと同時に速度を増し、とても追いつけない。諦めたロニーが歩を止めた時には、その輝き自体、一つの生命体のようだった。
鮮やかな光が跳び去ると、後には赤茶色の世界が残った。
この道を知っている。
懐かしい感覚に、自然と歩が早まる。
肩書も枷もニミヤ様もすべて失い、だからと言って、かつての故郷に何が残っているわけではない。襲撃のその後を、ロニーは知らない。集落が残っているかも分からない。
それでも歩く。行ける場所は、そこしかなかった。
水汲みをした川。雨宿りをした岩陰。記憶をたどり、道を探す。
分かれ道に差し掛かる。ここを曲がればもうすぐ。
ロニーの髪を、艶やかな風が吹き抜けた。知らない空気に、惑いを覚える。
どこかに間違いがあっただろうか。しかし、この先は一本道で、迷いようがない。なのにその道は段々と知らぬ姿になっていく。覚えのない柔らかな地面を蹴り、走る。
緑の世界があった。
断崖から水が降り注ぐ。新たに生まれた滝から、命の恵みが染み渡る。そうして柔らかく耕された土から、競うように草花が生えていた。まだ頼りないながらも根を下ろした樹木があり、岩を覆うように瑞々しい苔が茂る。そこに、不毛の集落の姿はない。美しいながらも知らぬ土地の光景に、ロニーはふさわしい感情を見失う。
自分の家。長老の家。広場のあった場所……。位置は分かるが、力強い生命力に覆われたそこに、かつての痕跡は見られない。
不毛の地に緑が芽吹く。良いことのはずなのだ。なのに、昔の面影を探してしまう。見慣れた場所はないか。確かな証はないか。求めてしまう。
あちこち歩き回ったロニーは、足裏の感覚が変わったのを感じて歩を止めた。
地面が固い。
顔を上げると、谷の根元が近かった。ニミヤ様のいた洞穴。
歩を向ける。進んでいく。見知らぬ土地になっていた場所が、懐かしい光景に姿を変える。この赤茶色の岩肌、乾いた地面、暗闇にそびえる鉄格子……。洞穴は、ロニーの記憶のまま残っていた。
ニミヤ様がいないことを除いて。
慣れた光景に安堵した心が、次の瞬間、疑問を浮かべる。
つと、振り返る。生命が息を吹き返した土地。
頭を戻す。見慣れた不毛の地。
――誰にも知られてはいけないよ――
洞穴の奥。鉄格子の向こうから、祖母の声が聞こえる。
冷たい風が、ロニーの体を撫でるようにすり抜けていった。
終。
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