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【短編】なりそこね

 何もしたくない。
 曇天が重くのしかかる。空がどばどばと白い綿をまき散らす。それは綿のくせに冷たくて、重くて、湿っている。
 見ているだけで気が滅入って、思わずカーテンを引いた。イスに座って、頭を机に投げ出して、ぼんやりとスマホを眺める。
 何もしたくない。
 適当にネットの海を揺蕩う。文字の羅列は意味もなさずに思考を通り過ぎていく。
 適当に文字をいじって、次の窓に飛んで、飛んで、飛んで。
 気付いたら、部屋の中でセミが大合唱していた。
 冬なのに。
 こんなに寒いのに、どうしてか暑苦しい。
 スピーカーからあふれる音が、手のひらをびりびりと叩く。
 うるさい。けど、もう止めるのもめんどくさい。
 何もしたくない。寒い。暑苦しい。
 夏のほうが良い。
 寒いよりは、暑い方が好きだ。だから恋しくて、セミの声を止められないのかもしれない。
 来年の夏まで、セミみたいに土にもぐりたい。
 奥深く、大地の鼓動が感じられるほどもぐりこんだら、少しは気持ちが和らぐだろうか。
 セミになりたい。けど、今外にあるのは、冷たくて硬くて白い綿だけだ。
 暖かいものに包まれたい。
 おもむろに立ち上がって寝室に行く。ベッドにもぐりこんで、転がり出た。
 無気力が嘘みたいな勢いで、床に落ちる。
 冷たい。暖房も入れていない部屋の、暖めてもいないベッド。固い床。無理もない。
「……さむい」
 ふらふらと浴室に向かう。脱衣所があたたかい。
 あいつ、風呂を沸かしてくれたんだ。
 服を脱いで、床に落とす。スマホを防水の袋に突っ込む。それでも、浴室に入るとセミの声が反響した。
 うるさいなんてもんじゃない。だけど止める気にならない。
 夏が欲しい。
 熱が欲しい。
 湯船に浸かる。冷えた体で湯が消える。
 追い炊きを押す。足元から熱風が吹き付ける。
 セミが鳴く。追い炊きを押す。湯がごぼごぼと泡を吹く。
 足りない。追い炊きを押して、押して、押して。
 煮えたぎる湯の中に身を浸す。
 浴室が蒸気に包まれる。白くて、軽くて、あたたかい。触れることの叶わない綿。その綿にくるまれて、意識が揺蕩う。あたたかくて、うるさくて、心地良い。
 暑くて、五月蠅くて、けだるい。夏の感覚。
 このまま身をゆだねたら、セミになれるだろうか。
 肉も内臓も骨も溶けて煮立てられ、浴槽の殻の中、新たな形を夢想する。目覚めた先はどんな世界だろう。僕はどんな形になるのだろう。どんな声で鳴くのだろう。
 わずかな命を燃やしきる覚悟を抱いて、長い時を眠りに注ぐ。
 暑い。本当に溶けるかもしれない。
 耳にわんわんと音がこだまする。セミの声なのに。
 何もしたくない。何もしなくていい。
 だって、これからセミに
「わぶっ!」
 顔に冷たいものが降り注ぐ。息ができない。鋭い。冷たい。痛い。
 それは唐突に過ぎ去って、揺れる視界にぼんやりとした塊を映した。
「バカか、お前は」
 セミの声を切り裂いて、低音が鼓膜に突き刺さる。
「ほえ」
 ふわふわする。頭が揺れる。呆けた頭のまま出た声は、セミの声にかき消された。
「何してる」
 声が真っ直ぐ降りてくる。何度か瞬きを繰り返すと、眼光鋭い塊に見下ろされていた。
 なんかよく見えないけど、多分、あいつだ。
「セミに、なろうと、おもっがばぼば」
 言った瞬間、また冷水シャワーが降ってきた。ひどい。
「水の中でセミが生まれるかバカ」
 大合唱がうるさいのに、どうしてかあいつには僕の声が聞こえるらしい。
 もう、蚊の鳴くような声なのに。
「きこえ、るんだぼぼ」
 また流水に叩かれた。ひどい。
「さては耳やられてんな。とっくに止めてるわ。近所迷惑だっつの」
「え……あ」
 ほんとだ。
 すっかり冬に戻された耳の奥に、セミの声がうずもれていく。代わりに、あいつの小言がわんわんと渦巻く。
「とにかく、さっさと上がれ」
「ふえぶぶぶ」
 全部聞き流してぼんやりしてたら、容赦なくシャワーを当てられた。
「ぷあ……っぷ。ひどい」
「自宅で溶けた同居人の死体を見せようとしたお前の方がよほど酷い」
「だって、セミは、いったん溶けて変態しがばぼ」
 ひどい。暴力反対。
「お前、帰ってきたら俺が風呂で骨になってんの見つけて、どう思う?」
 低音は否応なく思考に入り込む。その光景を脳裏に引きずり込んでくる。
 ……どうしてか、セミファイナルを見つけた時のような虚無感に襲われた。
「すごく、ヤだ」
「なら今すぐ止めろ。さっさと上がれバカ」
 罵倒の文句が一つしかない。僕よりセミの素質があるかもしれない。
「今すぐ上がらねぇと、水風呂にするぞ」
「ごめんてば」
 よろよろと体を引きずり出す。外は重い。寒い。僅かに漂う柔らかな綿が、僕を忌避するように離れていく。
「ほら」
 同居人がタオルをくれる。力の入らない手で掴んだら、どういう訳かじっと見つめられた。
 見られて困ることはないけど、凝視されても反応に困る。
「……カニが食いたい」
「え?」
「もしくはイセエビ」
「は?」
「メシ行くぞ。とっとと上がれ」
 僕の問いを無視して、あいつは踵を返す。
 体の水分を拭き取る。自分の体を見下ろして、意味を悟った。
 ものすごく茹で上がってる。
 分かった途端、おなかが鳴った。
 あれだけ茹ったのに、僕は僕のままだ。
 セミになるには早いらしい。
 
 
終。
 

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