【短編】いじわるなバター
居間のカーテンを開くと、部屋がさっと明るくなった。レース越しに差し込む光が熱を含んでいる。休日だからと寝坊した私に、“しょうがないなぁ”と温かく笑いかけるようだ。
お昼ご飯には早いけど、待つにはお腹がきびしい。私は台所に向かい、食パンの袋を取り上げた。一瞬だけ迷って、とりあえず自分の分をトースターに放り込む。
コーヒーメーカーをセットして、レタスをちぎる。卵を焼こうかなと考えていたところで、パンが焼けた。あわあわとお皿に取り出して、同じノリで冷蔵庫を開ける。
紙箱に収められたバターを取り出す。一回分ずつに個包装された銀紙をのろのろと剥がし、くるんとパンの上にあけた。
平たい四角形に切られた塊が、きつね色に焼きあがったトーストにぽとんと落ちた、瞬間。
「熱っ! うわあっつ! なにすんの自分!」
「うひゃえ?!」
唐突に響き渡った声に、驚いたこっちも変な声が出た。
声は確実にバターのある辺りから聞こえている。バターは熱々のトーストの上に載せられたにも関わらず、一ミリも溶ける様子がない。
「何このあっついの。ひどいわー。ただでさえ愛する我が子ぉの栄養になれず哀しみくれるあたしに追い打ちをかけるようなこの仕打ち。勝手に固めたと思ったら今度は溶けぃ言うんかいな。勝手やわ。勝手が過ぎるわ」
息が苦しくないんだろうかという勢いで、バターがまくし立てる。いや、そもそもバターって呼吸必要なんだろうか。
というか。あぁ。いじわるバターに当たってしまった……。
「あの、黙って溶けていただけません?」
「何であたしが溶けなあかんねん。あたしは自分の栄養になるために生まれてきたんやないんよ。もう少しで我が子の口に入るところやったんに横から無理やり引き絞りおって」
このままだと先にトーストが冷めそう。どうしよう。丸ごとレンチンするしかないかな。
「あたしは知ってるんやで。自分らあたし以外からも栄養横取りしてええ思いしてんのやろ。いつまでも黙って飲まれると思ったら大間違いやで。今まで無念に摂取されたやつらの分も、あたしが文句言ったるから覚悟しぃ」
「いや、たまにあなたみたいなのが発生するのは知ってるから」
「かーっ! あたしらの無念の声ぇを聞いて尚悪行を続けとるんかいな。悪魔か自分」
「あなたたちだって草食べるでしょうよ。草だって次代に命を繋ごうと花咲かせようとしたりして、けどそこをあなたたちは掠め取って食べて栄養にするでしょ」
「そりゃそうや。あたしらだってそりゃ余所さんのお命頂戴することはある。けど自分と違ぅて意味わからん形に固めたりしないんよ。命は命のままいただく。それこそ誠心誠意あたしらの栄養になってください言うてぱくりといくわけですわ。それを何ですの自分。横から掠め取ったと思ったら無意味にかき回して引っぺがしてさんむいところ突っ込んでぎゅうぎゅうに詰め込みよってからに。回り道させられてるあいだにあたしはあたしからすら引きはがされて、かと思ったらぎゅーぎゅーに圧縮されて。おかげで自分らに文句の一つも言えるようになったさかいそこだけは良かったと思ってもな。栄養にするならせめて真っすぐいただいて欲しいんやわホントに」
だめだ。勝てる気がしない。さすが、生乳の頃からの恨みつらみが凝縮されているだけはある。出来ることなら生産段階でこういうの弾いて欲しいんだけど、そうすると製品を一度熱処理にかけなきゃいけないわけで。バターにそれするのは致命的なわけで。だからまぁ、仕方がないとは思うんだけど。
どうしよう、こいつ。
と思っている間に、バターの声が止んだ。トーストが完全に冷めてしまったらしい。パンもバターも冷たくて切ないけど、この際仕方ない。私はバターを噛めるよう端に寄せて、食パンにかじりついた。
前歯が、バターの上をがりりりと横滑りする。
「痛っった!」
固い! なんなのこいつ!
真っ直ぐ食べろって言うから、溶けてないのを容認して食べようと思ったのに。まぁ、バターにされてる時点で真っ直ぐじゃなかったんでしょうけども。
どうしよう。捨てようか。
口元を抑えながら、お皿に戻したパンを見つめる。石を噛んだみたいな衝撃に、まだ口の中がびりびりしている。
けどなぁ。捨てたバターが台所に戻ってくるのは有名な話だ。石鹸だのマグネットだのタイルだのに偽装して居座り、言葉の代わりにどす黒いカビをまき散らし、虫やネズミを呼び寄せて家人を発狂させる。そうした騒ぎがニュースで読み上げられたのは、一度や二度じゃない。そんなことになれば、私も多分先人たちと同じ道を辿ることになるだろう。間違いなくトラウマになる。
二度とバターが食べられないのは嫌だ。
パンに塗れないのはもとより、ケーキやクッキーの材料にも、パスタにもお魚のソテーにだって、バターは使うのだ。いじわるバターに怯えて、美味しいものと疎遠になるのはご免である。
となれば、食べるしかない。私は、壁に掛けられたフライパンを手に取った。最大火力で温めたそこに、パンに載ったバターを落とす。
めちゃくちゃに温められているはずなのに、やっぱりバターに溶ける様子がない。
「あっつ! ホント酷いな自分。けどこのあたしを簡単に落とせるおもたら大間違いやで」
代わりに、熱を得たバターから再びの罵詈雑言。その声が勝ち誇っているように聞こえて腹立たしい。
「あんたが何を言おうがバターになったって事実は変わらないんだから。食べて欲しいなら大人しく溶けなさいよね」
「おはよ」
「ヒトの運命捻じ曲げといてよぅ言うわ。なんであたしがしおらしく食べられなあかんねん。賞味期限ギリギリのギリまであがいて喚いて、あたしを愛する子ぉから引きはがした罪を自分に思い知らせたったるわ!」
「おーい」
「食べ物なら食べ頃の間に食べられなさいっての!」
「栄養ドロボウに似合いの味になったるわ!」
火力と共にヒートアップする応酬が、私の息切れによって途切れる。怒鳴り続けで上がった体温と、強火であぶられ続けるフライパンから放たれる熱気で、眩暈がしそうだ。
「……おはよう?」
「うひゃう?!」
乱れた呼吸の合間に気の抜ける声が聞こえ、またも変な声を出してしまった。今度は何と視線を転じる。
カケルが、ほんにゃりとした笑みを湛えて立っていた。
「お、おはよう」
「朝から元気だね」
「いやあの、バターが」
「何人来ようとあたしは負けへんで!」
カケルは私が示したフライパンをしばし見つめ、くるりと踵を返した。冷蔵庫を開けて何やら取り出し、戻ってくる。
そうして、おもむろに取り出したボウルに卵を割った。慣れた手つきで菜箸を回す。
「いやだから、バターが」
溶けないんだってば。
そう続けようとした私に構わず、カケルはボウルを置いて、フライパンを動かす。バターはずずず……と、最大限の抵抗を以て坂をずり落ちる。
「簡単に溶けるとおもたら大間違いやで。あたしはなぁ。ホントなら愛する子ぉのために丹精込めて育んだ栄養なんに」
「そっかぁ。大変な道を辿ってうちに来てくれたんだねぇ。ありがとー」
多分続きがありそうな言葉に、カケルはのんびりとした声で入り込む。火力を調整し、菜箸でバターをフライパンの隅に寄せると、空いた場所に卵を流し込んだ。
煙が出る程の勢いで卵が沸騰する。無理もない。私が火事になるんじゃないかというくらいの勢いで熱し続けたフライパンだ。油も引かずに卵なんか入れたら、焦げ付くじゃ済まされない。
カケルがバターに向けて眉を下げた。
「困ったなぁ。このままだとにわとりさんの命が無駄になっちゃ」
ジュッ……。
言い終わらないうちに、バターが溶ける音がした。カケルはフライパンと菜箸を器用に操って、卵の下に溶けたバターを流し込む。こびりついた卵をこそげ落としながら全体をかき混ぜ、見事なスクランブルエッグを拵えた。
あっけにとられる私をよそに、完成品をお皿に移動する。
「どうぞ」
一瞬前までこの世の終わりみたいな顔をしていたのが嘘みたいな、満面の笑み。
「あ、ありが、と」
流されるままに受け取る。バターでツヤの増した卵はいかにもおいしそうな焼き上がりだけど、このツヤにあの小言と意地の悪さが含まれていると思うと、口にする気が薄れてしまう。
「……はんぶんこ、する?」
「ううん。きみのために作ったから。ぜんぶ食べて欲しいなぁ」
ほにゃあとした笑みを浮かべ、カケルは冷蔵庫から新しい卵とバターを取り出した。自分のを作る気だ。
……あのバターもしゃべり始めればいいのに。
私はほんの少し恨めしい気持ちで、カケルの手つきを見つめていた。
終。
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