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【短編】蝦


※ゲテモノとグロが苦手な方はご注意ください。




 唇から零れる泡が、己の命を運び去っていく。
 丸く切り取った光はみるみる遠ざかり、青い輝きは混沌のうねりに飲まれゆく。
 体が重い。女王直属の証であるお仕着せが、この時ばかりは枷となった。海水をたっぷりと飲み込んで、運命の過酷さを鮮明に知らせる。もはや、己も海の一部ではと錯覚するほどに、皮膚感覚が消えていた。
 ここまで、か。
 わずかに見えていた光が、脇から伸びる影に飲み込まれる。
 それと同時に、召使いの意識も暗闇に包まれた。
 
「こたびの勝利、おめでとうございます」
 女王から戦用の外套を受け取りつつ、召使いは頭を下げる。
「私が率いたのだ。当然だろう」
 勢いよく玉座に腰を下ろし、長い足を組む。高さ的には召使いの方が見下ろす形になるのだが、女王の瞳に射抜かれ、己が倒れ伏している錯覚を覚える程だ。
 そのまなざしが語らんとしていることを、召使いは誰よりも知っている。
「……皆まで言わせるな。すぐに発て」
「はっ。仰せのままに」
 弾かれた様に姿勢を正し、召使いは足早に謁見の間を出た。
 最近の女王は負けなしだ。
 戦を起こせば、あっという間にその土地を平らげてしまう。おかげで、戦う前から降伏する国まで現れ始めた。
 指揮はともかく、自身が戦っても強い。その上、政治手腕もある。
 誰も逆らえない。一使用人である己など以ての外だ。
 分かっていても、夢想せずにはいられない。
 ことあるごとに、彼女のために奔走する己が、報われる日を。
 とはいえ。
 あらゆるものを手に入れられる立場にいる彼女の願いが、一筋縄で済むはずがない。
 晴れ渡った青空の下、潮の香りが濃くなっていく。喧噪の合間を縫って進むと、やがて人の壁が消え、視界が開けた。
 水平線まで見渡せる海。種々雑多な船。荷物を運ぶ人々。
 あらゆる言葉と物資が行き交う、この国自慢の港。
 しかし、召使いの姿を認めた漁師たちは、一斉に苦い顔をした。彼らは召使いにとっても慣れた顔ぶれで、今さら来訪の意を伝える必要もない。
「行きますよ。時間がありません」
 相手に構わず召使いは宣言する。誰もが黙々と己の位置についた。
 戦争に勝てば、祝賀会が開かれる。
 女王は、祝賀会に出す料理に、新たな領地からの食材を所望した。
 あの女王が、普通の食材で満足するはずがない。
 その結果が、女王の不満と漁師たちの不安顔だった。
 勝ち得てきた領海はまだそれほどの広さではなかったものの、近いが故に手に入る食材が似通るのも早い。彼女を待たせた先の結末に想像を巡らせ、誰もが成果を焦る時期に至っていた。
 そうして、焦燥から発生する小さな事故が重なって、召使いは海に落ちたのだ。
 
 身体がびくりと痙攣する。それに驚いたように、意識が引き戻された。
 眼前に広がる青空に、筋を引く雲が流れていく。
 ゆっくりと息を吸い込む。塩辛くも新鮮な空気が、肺を満たしていった。
 生きている。
「お目覚めですかな」
「?!」
 穏やかな声に、身体が反射的に起き上がる。その勢いで、船が揺れた。
「ご無事で何より」
 投網をいじりながら、老人が微笑んだ。
「あり、がとう、ございま、す」
 思考が追いつかないままに、言葉を紡ぐ。
「貴国は、変わった漁をなさいますな」
「いや、その」
 服を着たまま海に入るのは、どこの国であろうと自殺行為だ。それとも、老人は婉曲に、もしくは皮肉の意味で言ったのかもしれない。
 老人の扱う投網には、見覚えのある紋章が縫い取られていた。それは漁の安全を願う印であり、国に忠誠を誓う証でもある。
 先の戦争で女王が勝ち取った国の住人。
 召使いのお仕着せを見れば、所属は明らかだろう。それでも助けるとは、懐の深い老人である。皮肉だろうが嫌味だろうが、それくらいで済むなら安いものだ。
 改めて礼を口にしようとした召使いは、胸元に手を当てたところで違和感に気付いた。
「……え」
 相手も、急に触れられたことに驚いたのか、せわしなく身もだえを始める。
 上着の隙間から、立派な海老の尾が踊った。
「えっ?!」
 とっさに上着をかき合わせ、己を抱きしめるようにして海老を包み込む。
 これは確かに、おかしな漁だ。
 召使いは、老人に対して抱いた否定的な思考を、心の内で謝罪する。
 何の変哲もない収穫だが、何もないよりはマシだった。
 近場の港に寄せてもらった召使いは、老人に改めて礼を述べ、馬車に飛び乗った。
 
「で?」
 玉座に肘をついた女王は、鋭い視線で召使いを射貫く。
「それが、特異な漁で得た獲物だ、と」
「……はい」
 海老を腕の中に抱きかかえたまま、召使いは身を縮めた。
「奇異な物語で腹は膨れん。海老ならこれまでの祝賀会でさんざ食べ飽きたわ。何のために領海を広げたと思っている」
「……申し訳ございません」
 なすすべなく、召使いは頭を垂れた。己に課されるだろう罰を思うと、気が重い。失意のうちに体から力が抜け、服の隙間から、ずるり、と海老が抜け出てしまった。
 湿っぽく重たい衝撃音が、むなしく響く。
「なっ……!」
 戸惑いの声が、さざ波のごとく謁見の間を覆う。謝罪のため床を見つめていた召使いも、そのままの姿勢で動けなくなった。
 何だ、これは。
 尾は海老だが、上着に隠れていた残りの部分が、どう見ても。
「ほぅ? 蛙と海老の掛け合わせか」
 久しぶりに聞いた、女王の声音。
 冷静な中に、抑えきれないほどの好奇を湛えているそれは、紛れもない上機嫌の証。
 磨き抜かれた床にペタペタと音を立て、まだら模様の蛙はもがいていた。本来なら力強く飛び跳ねる下肢が海老の尾であるために、甲羅部分が滑って態勢が立て直せないのだ。
「お前も、凝った演出をするようになったではないか」
 掛けられた声に、反射的に顔を上げる。口元に扇を当てた女王が、切れ長の瞳で召使いを見下ろしていた。召使いは半ば呆然として、女王を見つめ返す。
 言葉を失っていると、女王は再び表情を鋭くさせる。
「さっさと拾え。祝賀会の準備だ」
 発せられた命令に、我に返った召使いを含め、動揺していた者たちが慌ただしく動き始めた。
 
 女王の好奇心を刺激してやまない食材は、料理人たちの嫌悪感をむき出しにさせた。女王の趣味嗜好を知っていてなお、「そんな暇はない」「手がふさがっている」を繰り返し、誰も手を出そうとしない。
 仕方ない。
 召使いは近場の調理台に異形を載せる。その場にいた料理人たちが道具を抱えて逃げていったが、構っている暇はない。
 このまま料理が出来なければ、処罰は召使いにも及ぶのだ。
 迷わず大ぶりの包丁を掴み、空いた手で海老の尾を押さえる。蛙の部分がもがくように両腕を動かしたが、躊躇うことなく両者の境目に刃を落とした。手の中の震えが意味するものから目を背け、無心で処理を続ける。
 一続きになればこそ特異な生き物だが、分断してしまえばただの海老と蛙。女王に従い種々雑多な食材を集めてきた召使いには、平凡すぎる素材だった。
 海老は甲羅と足を取り除き、ワタを取る。その肉質は白くとろりとしていて、口に入れただけで溶けそうなほど柔らかい。作業中にも指に身が絡みつき、艶やかな光沢を放つ。
 反対に、蛙の肉はよく引き締まっている。茶色い皮はいぼごときれいに剥がれ、中は艶やかな桃色。弾力のある肉質は鶏肉に似て、どんな調理法でも合いそうだ。
 やっと彼女の要望にかなう食材が手に入ったのだ。相応しい形で提供したい。作業を進める召使いの中で、想像が膨らむ。
 海老は身の柔らかさを生かして生のまま、もしくは軽く蒸してみようか。蛙は香草を詰めて丸焼きはどうか。煮込みも捨てがたい。しかし両者は一続きでこそ女王の興をそそったのだから、盛り付ける時もそれと分かる方が喜ばれるかもしれない。料理を出した瞬間、彼女の最高の笑みが見られるものがいい……。
 腹部が盛大な音色を奏で、召使いは我に返った。思えば、海に落ちてからこの方、何も食べていない。気付いてしまうと、目の前で完成しつつある料理に強い魅力を感じた。
 出来上がったものの端を、それと分からないように切り分ける。肉の断面が、魅惑的な艶を放った。
 芳醇な香りに意識が飛びそうになる。刹那。
「料理はまだか?」
「はい。ただいま!」
 反射的に声を上げる。盗み食いの兆候すら悟られるのを恐れ、小さく切った肉を紙に包み、ポケットに隠す。
 そうして、慌ただしく配膳の準備を始めた。
 
「お待たせ致しました」
 召使いが現れると、辺りがしんと静まりかえった。
 どうやら、異色の食材が持ち込まれた話は、すでに広がっているらしい。
「待ちくたびれたぞ。……しかし、良い出来だ」
 自身の前から邪魔な皿を全て下げさせた女王は、目の前に出された料理に口元を緩ませる。
 双方別の調理法を取られた蛙と海老は、皿の中で再び一続きに並べられていた。
「では……」
 女王がナイフとフォークを手に取ったのを見て、召使いは傍らに控え、膝を折った。異色の料理の味を想像しつつも、自身の空腹がばれないようにと願う。食器を扱う音しか聞こえないこの部屋の中で、あの腹の音は目立ちすぎる。
 しかし、香ばしく焼かれた肉の薫りがふわりと召使いに舞い降りて、身体が疼いた。まずいと思った瞬間に、腹部から盛大な音が放たれる。
 辺りがにわかに騒がしくなり、召使いはいたたまれなさにますます頭を垂れた。
「召使い!」
 大臣の怒号に、召使いはびくりとして顔を上げる。茹で蛸のごとく真っ赤に染まる顔に、そこまで怒らなくてもと思うが仕方ない。
「申しわけ」
「これはどういうことだ?!」
「は?」
 困惑の声に引きつった笑み。感情が混乱する大臣は、震える指先で召使いを促す。
 振り仰いだ先に、女王がいない。
「え?」
 咄嗟に立ち上がった召使いは、料理皿の傍らで蠢く異形を見て呆然とした。
 生きた異形。
 確かに調理したはずで、皿にはまだ料理が残っている。
 では、これは。
「女王、さま?」
 彼女が座っていた席には、彼女が着ていた衣服が、型を失ってくしゃりと丸まっている。
 まるで。
 まるで、女王がこの異形に、
 辺りの動揺が、ない交ぜに召使いの耳を打つ。その言葉は、一つも彼の中に届かなかった。
 
 微かに水流の音がする。
 ひやりとした石畳に身を横たえ、召使いはぼんやりと暗闇を見つめていた。
 もうすぐ、召使いは首を落とされる。しかし、そんなことはどうでもよかった。
 同じく石畳の上で身もだえる、女王だったモノ。彼女もまた、刑に処されることになっていた。元に戻す術が分からない以上、せめて海に逃がしたいと願ったものの、罪人の言葉が誰かに届くはずもなかった。
「申し訳ありません。女王様……」
 召使いの手が、ゆっくりと異形に伸びる。蛙の皮膚はしっとりとして冷たく、海老の甲羅は、堅固な艶を放つ。まるで、女王その人を現しているようだ。
 決して、触れることの叶わなかった存在。姿が変わろうとも、彼女に触れられたことが、唯一の慰めだった。
 上がにわかに騒がしくなる。まもなく、刑の執行が始まるだろう。
 重い体を無理やり起こし、策を練る。
 自分はどうなってもいい。今からでも女王を逃がす術はないだろうか。
 四つん這いのまま進み、鉄格子を掴む。当然ながらしっかりと施錠されており、多少揺すった程度ではびくともしない。まして、食事抜きの状態が続いている召使いに、なす術はない。
 どうする。必死に思考を巡らせる召使いの腰を、何かがつついた。
 見ると、女王がお仕着せのポケットに鼻をくっつけている。
 調理場の匂いが残っていただろうか。鼻腔がせわしなく動いている様子に、こんな時だというのに、微笑ましさを感じた。
「何もないですよ。ほら……」
 言いながらポケットに入れた指先に、かさりと手ごたえを感じる。
 それは、後でこっそり味見しようとしていた料理の紙包みだった。
 今となっては共食いになってしまう。苦笑を浮かべた召使いは、女王が動き辛そうに、それでもするりと鉄格子の隙間をすり抜けたのを目撃した。
「あ」
 召使いの脳裏に、希望が閃く。
 地下牢は、地下水道に繋がっている。
「女王様、そこの」
 召使いの示す方に女王は数歩進むと、召使いを振り返った。そうして何を思ったか踵を返し、召使いのひざ元まで来ると、手元にあった紙包みをつつく。
 そんなに食べたいのか。召使いは包みを開いたが、今度は目もくれずにまたも踵を返す。そうして、召使いを振り返る。
「あ……」
 その意味することに気付き、召使いは泣き笑いの表情を浮かべた。
「女王様。あなたは本当に、賢いお方ですね……」
 召使いは紙包みから料理を摘まみ取り、口に運んだ。
 極上の味が、祝福するように召使いを貫いた。
 
 口から零れる泡が、踊るように舞い上がる。
 青い輝きの中を、二匹の異形は寄り添って進む。
 身のこなしも軽く、初めからそうと決まっていたように。
 ふと、僅かに見えていた光が、舞い降りる影にからめとられる。同時に、二匹の体は急浮上した。
 網の中でもがく異形を見て、老人は小さく笑う。
「これはまた、良いものが取れましたな」
 つぶやきを残し、老人の船は帰路についた。
 
 
終。


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