【短編】記録の塔
守り人の管轄する部屋には、一つしか窓がない。
大柄の守り人ですら手の届かない位置にある、小さな石のアーチ窓。
時を確認する目的でしか使わないそれを見上げ、守り人は作業の手を止めた。
紺碧の空には小さな星々が瞬き、彼らを撫でるようにオーロラがひらめている。
そろそろ、か。
守り人が思うと同時に、ガランガラン、と、ドアベルが響いた。
窓と向き合う守り人から見て左側の扉から、にこやかに片手をあげた客が入ってくる。
「ひっさしぶりー。元気だったか?」
客は親し気に切り出すと、カウンター越しに守り人と向かい合った。
「私は変わらんよ」
己の台詞に、守り人は苦笑を浮かべながらも続ける。
「いい旅だったか」
守り人の問いに、客は片手を軽やかに回して見せた。
「もちー。守り人ちゃんのために頑張っちゃった。なんてねっ」
「……“旅行中”は、私のことなど思い出せないだろうに」
「まぁね。いいじゃんいいじゃん。気持ちってことで。はいこれ。おみやげっ」
客はもう片方の手に抱えていたものを、カウンターに載せる。
それは、時を経て深みを帯びた紙が厚く挟まれた、葡萄酒色の硬表紙の本。くすんだ金色の留め具が嵌められたそれは、きちんと“閉じられた”ことを示していた。
守り人は本を一通り検分すると、左側にある空き机に載せる。
「確かに。で、どうする」
振り返った先に客の姿はなく、光の玉が一つ、浮いていた。
「もち、次の本、ちょーだいっ」
光の玉が、先ほどの客と同じ調子で応じる。
「直ぐに行くのか。休んでも良いんだぞ」
「いいのいいの。次も期待してよねん」
軽やかに空中を回って見せる光の玉に、守り人は右の机に積まれた本を一冊、差し出した。
「よき旅であるように」
カウンターに載せたのは、真っ白な硬表紙の本。挟まれた紙も指を切りそうなほど真っ白で、留め具は開いている。
「あいよー。“次のオレ”によろしくっ!」
光の玉は本を受け取ると、右の扉から出て行った。すかさず左側からドアベルが鳴る。次々にやってくる客から、同じように本を受け取る。彼らは軽いあいさつから長めの土産話、黙って淡々と手続する者と様々で、渡される本も彼らと同じく、表紙が様々な色に染まっていた。
殆どの者が新しい本を持っていくが、時に、次の本を受け取らない者もいる。そういった客は、決まって部屋の奥にある階段から、上へと消えていった。
ようやくドアベルの音が止む。空けておいた机には様々な色表紙の本が積まれ、新しい本は残り僅かになっている。
そして、窓の向こうには青空が広がっていた。
静けさを取り戻した塔の中で、守り人は一つ息をつく。
彼の生活は、決まった仕事の繰り返しだ。一つは客から本を受け取り、次の行方を訪ねる夜の時間。もう一つは、預かった本を整理する、昼の時間。
渡された本を書庫へ運び、新しい本をここへ運び出す。預かった本がすべて収まるまで、必要な本を出してくるまで、同じことを繰り返す。
そうしてすべての仕事が終わって余白があれば、皆が持ち込んだ本を読める。閉じられた世界に生きる守り人にとって唯一の、“外を見る”時間。
「さて。やるか」
守り人は己を鼓舞するように、小さくつぶやく。
年季を帯びた本を丁寧に積み重ねて腕の中に抱え、背後にある下り階段へ向かおうとした守り人は、視界の端で何かが動いた気がして振り返った。
カウンターの向こうから、僅かに頭をのぞかせる幼子が一人。
不意の来訪者に驚いた守り人は、腕を振り上げそうになるも、理性で抑えた。
大切な本をぶちまけてはたまらない。
「……驚いたな。いつから居た?」
平静を装い、問いかける。
客が来ればドアベルが鳴るはずだ。そもそも、今は客の来る時間帯ではない。
「あぁ。休憩が終わったのか?」
思い当たった可能性を口にするも、すぐに己が否定する。
休憩を終えた者が上から降りてくる時は、光の玉の姿をしている。こんな、すでに道筋が決まった形は持っていない。
だとすれば。
「納品か?」
ここでは皆が当たり前のように一人ずつ入室するため、守り人もその前提で視線を動かす癖がついている。実は二人いたが気付かなかった、という可能性を否定できない。
「むー」
幼子は何を思ったか、両手の力でカウンターに上がろうとする。細い腕は小さな体といえど支え切れず、小刻みに震えていた。
「こちらはお前の来るところではないぞ」
部屋はカウンターで区切られている。客が守り人側に行くことはもちろん、守り人が客側に向かうことも阻んでいた。
それと分かって、自分の納得する形で本を渡したいのかもしれない。申し訳なさが先行し、守り人は幼子の両脇を抱えて持ち上げてやる。彼女の本は、肩からたすき掛けにされた革ひもに留めつけられていた。
しかし、その留め具は開いている。
「お前、終わっていないじゃないか」
記録を終えていない者がここに来るとすれば、夢の狭間か、死の……。
唖然とする守り人の隙を突き、幼子はするりと床に舞い降りる。そのまま、あっという間に地下に続く階段に滑り込んだ。
「おい、待て!」
制止したところで幼子の動きは止まらない。仕方なく、守り人も階段を下りる。
階段から続く主通路を挟み、ずらりと並ぶ木製の棚。
書庫は今までの記録を収め、次の本も保管している。おかげで膨大に棚があるが、通路にものがはみ出さないように徹底しているため、幼子がいる場所はすぐに知れた。
「本がたくさん」
守り人に気付いた幼子は、満面の笑みで彼を見上げる。
「ここは、そういう場所だ」
答えつつも、両腕は幼子を捕まえようと伸びる。しかし、幼子は抱き上げようとするたび、まるで軟体生物のごとく手の中をすり抜けた。何度繰り返しても結果は同じで、諦めざるを得なくなる。追撃がないと分かると、幼子は軽快に駆けていった。
さすがに目を離すわけにはいかない。守り人は大股で後を追う。
しばらくはあちこちの背表紙を見て回っていた幼子だったが、守り人がそばに居ることに気付いたらしく、彼を振り仰いだ。
大きな瞳が、無邪気に輝く。
「おじさん、おしごとしないの?」
「お前なぁ……」
確かに襲い掛かる獣の類が発生する場所ではない。しかし、背の高い棚がずらりと並び、その中にはぎっしりと本が詰まっている。
興味本位で高い場所の本を抜き出そうとして、落ちて怪我でもしたら目も当てられない。大体、書庫整理の間に他人が入り込むことなど今までなかったから、気が散ってしょうがなかった。
とはいえ、作業を始めなければ、次の客が来てしまう。
「…………」
守り人が熟考する間に、またも幼子が走り出す。
「おい、こら!」
落ち着きがないことこの上ない。気付いた守り人が慌てて後を追う。
ここに戻った者たちは、慣例に倣って守り人に本を渡す。交わされる言葉は形式的なものや一方的なもので、駆け引きなど発生しようがない。
誰かと関わるということは、かくも齟齬が発生するものなのか。
人々の営みを、その中で形成される感情を、知らないわけではない。だがそれらは、皆が持ち帰る本を通じて得たものだ。カウンター越しに本を受け取る行為と、何ら変わらない。
初めての体験に、守り人はただただ、振り回されていた。
ようやっと追いついた先。幼子は、真っ白な硬表紙の入った棚の前で、歩を止めていた。
「それは、上へ、運ぶ用の、本だ」
慣れない運動で息が切れ、言葉がうまく発せない。
「持ってくの?」
対し、幼子は疲れた様子も見せず、本を見つめている。
「あぁ」
「わたしも持つ」
「遊びではないのだぞ」
言いながらも、守り人は幼子に一冊だけ本を持たせてやった。両手でそっと本を握った幼子は、軽やかに何度も飛び跳ね、ころころと笑う。
「ちゃんと、ついてくるんだぞ」
「はぁい」
守り人は、新たな知見を得た気がした。
もう、そばに居てくれるなら、何でもいい。
「ここ?」
「そうだ」
「つぎはこっち?」
「……まぁ、そうだ」
幼子は、新しい本を持ち運ぶのも、古い本を棚に戻すのも、喜んで手伝った。二人で行ったこともあり、押していた時間も取り戻す。
一仕事終えて窓を見上げると、まだ青空が残っていた。
「お前、そろそろ……」
本来、幼子はこちら側にいるべきではない。せめてカウンターの向こうに戻そうと振り返った守り人は、暗闇に呑まれゆく幼子の後ろ髪を見てため息をついた。
またか。
疲れの残る足で、踏みしめるように階下へ戻る。
幼子は、本の背表紙を見て回っていた。近づいてくる守り人に気付き、手近な棚を指し示す。
「どんなおはなしがあるの?」
「皆の旅の軌跡、だな。楽しいものもあれば、苦しみに終わるものもある。とはいえ、お前にはまだ早い」
「そんなことないもん!」
一応、守り人なりに配慮して告げたのだが、幼子は頬を膨らませた。
「ここにある本の中にはな。お前には荷が重い話が、一つや二つは必ず入ってる。寝覚めの悪いことはしたくないのでな。おあずけだ」
「けち~っ!」
補足もしてみたが、幼子は両腕を振り回して抗議するばかりだった。
埒が明かない。
「ともかく。上に戻るぞ」
守り人は幼子を捕まえようと手を伸ばし、幼子は捕まるまいと守り人の周りを駆ける。その場でくるくると追いかけるも終わりは見えず、慣れない動きに守り人は目を回した。
倒れるわけにはいかまいと、眉間を抑えて立ち止まる。
「おじさんの本」
背後から、幼子の声がした。
「まぁ、皆が持つ決まりだからな」
その決まりは、客だけでなく守り人にも当てはまる。彼の本は、腰に留めつけてあった。
「ねぇ」
背後からひょこりと顔を出した幼子は、守り人の本を示して見せる。
「おじさんの本には、“にがおもい”のは、ない?」
無邪気な問いに、守り人は口ごもる。
己の軌跡は、己が一番知っている。
「読んでも、つまらんよ。ずっと同じことの繰り返しだ」
「ないんだ」
「…………」
無邪気な笑みに、ため息しか出てこない。
「みーせーて?」
今度は背中に張り付いて離れない幼子に根負けし、守り人は己の本をベルトから外す。
開いたままの留め具を避けて、幼子に向けて本を開く。さらさらと音を立ててめくられていくページを、二人で覗き込んだ。
昔は、毎日ひとりでに増えていく記述が面白くて、自分の本だというのに、飽きもせず眺めていた。だが、変わり映えがしない記録にいつしか興味は薄れ、顧みることはなくなった。
開くのは、本当に久しぶりだ。
昔と変わらない、同じことを繰り返す日々。ページをめくっても、似たような文言が続く。もし違う記述があるとすれば、幼子がひっかきまわしてくれた、今この時くらいだろう。
そういえば、この幼子は文字が読めるのだろうか。問おうとした守り人の動きが止まる。
白紙のページに辿り着かない。
はやる気持ちを抑えこみ、残ったページをゆっくりとめくる。どのページにも、守り人の軌跡を綴るインクが、止めどなく走っていた。
そうして、最後のページに辿り着く。
ようやく見つけた余白は、残り少ない。
同じことの繰り返し。客たちのように、取り立てて書き記す出来事もない日々。
それでも、守り人の過ごした時間は、確実にページを埋めていた。
「おじさんは毎日おなじっていうけど」
幼子が顔を上げる。
「ぜんぶが、ちょっとずつちがう時間だったと思うわ」
わずかに残った空間が、記録で埋め尽くされていく。
「わたし、おじさんのお話、好きよ」
そう言って、幼子はにこりと笑う。
「お前は……そうか」
気付いた守り人は、小さく息をつくと、笑った。
「全く。余計なことにページを費やしおって」
「余計じゃないわ。おじさんと過ごした、大事な時間よ」
話している間にも、記録は続く。
そうして、ひとりでに本が閉じたかと思うと、伸びてきた留め具がカチリ、と鳴った。
閉じられた本は、守り人にとって見慣れたもの。
“終わり”の証。
守り人は立ち上がると、階段を上った。何も言わずとも、後から幼子が続いた。
部屋を区切るカウンターと、二つの机。
積まれた真っ白な本と、一つの小さな窓。二つの扉。
見慣れた、小さな世界。
「さ、おじさん。次はどーする?」
後ろから、幼子の声。守り人だった者は、空いた机に本を載せると、小さく笑う。
「本をくれ」
「りょーかい」
幼子は真っ白な硬表紙の本を手に取り、振り返る。
「とびきりのおみやげ話、期待してるからね?」
両手で差し出された本が、ふわりと浮き上がる。
「あぁ。“次の私”に伝えておくよ」
そう言って、光の玉はカウンターを飛び越え、右の扉から出て行った。
終。
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