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【短編】糸電話

 気付けば、口元にすっぽりと紙コップが嵌まっていた。
「いゃだ、もう!」
 頓狂な声が、紙コップの中でビリビリと響く。
 咄嗟に引っ張ってみたものの、びくともしない。コップと一緒に顔周りの皮が引っ張られるだけだ。端から見ればさぞ滑稽だろう。なんて恥ずかしいのかと辺りを見回すも、幸いなことに人通りはない。
 むしろ不自然だった。
 スーパーの中である。天井から賑やかな音楽が流れ、商品はずらりと並び、奥に見える窓に映るは快晴、明らかに営業時間である。片腕に下げたカゴに野菜が入っているのを見る限り、買い物の最中だったはずである。見れば傍らに、新商品らしき清涼飲料水の試飲コーナーがあった。
 そうか、ここで飲み物を貰った所だったっけ。
 納得しそうになって、しかしどんな飲み方をしたのか思い出せない。飲み終えた紙コップを口に嵌めて遊ぶなんて、遠い昔の話だ。いい大人がこれでは、みっともないでは済まされない。
『もひもーひ』
「!」
 思わず両手で口元を……紙コップを覆う。すぐ近くで聞こえた声は、店内放送にしては妙に音が籠もっていた。
 しかし、恐る恐る辺りを見回しても、やはり誰もいない。そうだこのまま紙コップを潰してしまえば良いと思い立ったが、どういう訳か、どんなに握ってみてもびくともしなかった。
 取れない。
 それに、どうやら紙コップの底から、何かが伸びているようである。摘まんで探ると、糸らしきものが一瞬見えた。しかし、どこに繋がっているのか、上手く見えない。
『おーい』
 声に呼び戻され、辺りを見回す。試飲コーナーに置かれた紙コップが一つ、不自然に移動していた。中身がないと思いきや、玉結びをされた青い糸が、ぽつんと底に沈んでいる。
 何だ、夢か。
 唐突に理解すると、妙に安堵した。
 誰だって、こんな恥ずかしい姿は見られたくないものだ。
『おーい、ひほへへまふはー?』
 状況から呼ばれているのは間違いなく自分だろうと、紙コップを手に取る。底に結ばれた青い糸が、するすると伸びた。
 試飲コーナーの台の下を覗きながら、紙コップを耳に当てる。
『もしもーし』
 懐かしい籠もった音が、鼓膜をくすぐった。
「あらあら、どうも」
『さなちゃんてば。でんわは「もしもし」だよー?』
 あどけない声に、はっとした。
「……たっくん?」
『そうでーす』
 脳裏に、にこにこと笑う男の子の顔が浮かんだ。互いに家を行き交うくらい、仲の良かった幼なじみ。小学校の頃引っ越してしまうまで、本当によく遊んでいた。
『きょおのゆうごはんはなんですかー?』
 楽しげな声に、何か答えねばとカゴを見る。じゃがいもとにんじん、玉ねぎに、厚切りの肉がカラカラと揺れていた。すべてマジックテープで着脱できるプラスチック製のおもちゃで、いつの間にこんなものがと思う頃には、景色がスーパーから子ども部屋へと変わっていた。
『もうすぐおしごとがおわるよー。ごはんがたのしみだなー』
 目の前で、糸電話を口に当てた幼子が、楽しげに話していた。そして、紙コップを耳に当てる。期待に満ちた目で見つめられ、咄嗟に口を開いた。
「今日はたっくんの好きなカレーですよー」
 幼子はにっこり笑って、紙コップを耳から口へ移動させる。
 口から外れない紙コップの糸が、彼の紙コップに繋がっているようには見えない。それでも問題なく聞こえているようだった。
 彼には自分がどのように見えているのだろう。口と耳両方に紙コップがあるのだが、不思議に思わないのだろうか。
『カレーだいすきー。うれしいな』
 耳に当てた紙コップに、目の前の幼子が声を吹き込む。そしてまた、いそいそと紙コップを耳に当てた。自分の方は口に紙コップが付いているし、耳には先程から紙コップを当てたままだから、そのまま話が出来る。
 夢とは言え、やはり滑稽な状態だと感じた。
「お仕事がんばってくださーい」
『はーい』
 糸電話を置き、幼子が何やら物を移動させるようなジェスチャーをしているのが、微笑ましかった。自分も何かしなければと耳の紙コップを置き、カゴから野菜を取り出すと、まな板の上に並べた。
 分厚い包丁でマジックテープを引き剥がす。その動作も、テープが剥がれる時に立てる盛大な音も、切った野菜が勢いで飛んでいってしまう所も、すべてが懐かしい。
「やだー。とんでっちゃった」
「あはは」
 ごっこ遊び中のアクシデントに、役を忘れて反応するのもご愛敬だ。
 膝歩きで部屋の隅に転がった玉ねぎを拾いに行く。踵を返すと、幼子が見えない扉を開けている所だった。
「ただいまー」
「おかえりなさい。もうすぐできますよー」
 言いながら、野菜をフライパンに入れる。揺すって、フライ返しで適当に混ぜると、お皿に載せてたっくんに渡した。
 全部切ったままの具材が、平たいお皿の上でコロコロと踊っている。
「おなかぺこぺこー。いただきまーす」
 たっくんは大ぶりのスプーンを両手に挟み、お行儀良くお辞儀をする。
「はーい、めしあがれ」
「もぐもぐもぐ。おいしいなー」
「ほんとー? うれしいなー」
「ごちそうさまー」
 一連の流れを終えると、二人で道具を片付けた。切った野菜をくっつけて、フライパンや他の道具をおもちゃ箱に入れる。
 振り返ると、たっくんが折り紙を取り出していた。
「つぎ、これであそぼ?」
「うん!」
 まだ不器用な手で角の合わない飛行機を折って、外へ繰り出す。近所の公園で力一杯投げると、紙飛行機はぐるりと旋回し、背後に滑り飛んだ。
「さなちゃんの、うしろにとんでったー」
「やだーもー」
 笑いながら振り返ると、紙飛行機の落ちている場所には数羽の鳩が歩いていた。誰かの投げたパン屑をつついているらしかったが、お構いなしに駆けていき、紙飛行機を拾い上げる。
 早苗の登場に驚いた鳩たちが、一斉に飛び立った。今度は早苗がびっくりして動きを止める。羽根が口に入りそうだと腕を上げると、小さな手が何かに当たった。
 口から何かが伸びている。
「あれ?」
「さなちゃーん」
 声に振り返ると、たっくんはいつの間に、巨大な紙飛行機に座っているのだった。
「たっくん?!」
「はやくのってのって!」
 魅惑的な誘いに抗えず、早苗は迷わず駆けて行き、たっくんの後ろに飛び乗った。同時に紙飛行機は舞い上がり、あっという間に地面が遠ざかる。
「すごいすごい!」
 下に雲海が広がり、どこまでも澄み渡る空を、紙飛行機は悠々と飛んでいた。
「あんまりのぞくとあぶないよ」
 たっくんの声に顔を上げる。彼は早苗の反応に満足げな笑みを浮かべていた。
 ふいに、小さな指が早苗を示す。
「それ、とらないの?」
「え?」
 反射的に顔に触れる。紙コップは変わらず、早苗の口元に張り付いていた。
「やだ。なにこれ」
 羞恥で頬が熱くなる。さっき手が当たったのはこれだったのだ。
「さなちゃんてば、トリさんみたい」
 たっくんは変わらず、にこにこと笑っている。
 とにかく外してしまおうと、早苗は紙コップを両手で包んだ。
『あめ!』
 唐突に声がした。びくりとして見れば、いつの間に傍らを鳩が飛んでいる。鳩は紙飛行機に追いつこうと羽ばたいているが、なかなか前に進めないようだ。どうしてかと思えば両脚に紙コップを掴んでいるせいで、どうやら鳩はそれを早苗に渡したいらしかった。
『あめ! あめ!』
 音は紙コップから響いていた。辺りを見回してみたが、雨の気配は全く無い。
「でないでいいよ」
「でない?」
 たっくんの言葉に、紙コップを見る。底に赤い結び目。伸びる糸は眼下の雲海を抜け、更にその下へと伸びている。
 糸電話だ。
『あめ!』
 声は必死に訴えかける。くぐもっているが女の子、いや、女性の声だ。
『あめ! あああん、あめ!』
 躊躇う間にも、鳩との距離が少しずつ開いていく。このまま電話を取らなければ、声の主が誰かも、何を言っているのかも、永遠に分からないだろう。
『おあああん!』
 悲痛な声。離れ行く鳩。早苗は咄嗟に手を伸ばした。鳩も最後の力を振り絞らんと、力強く羽ばたく。
 早苗の手が、紙コップに触れた。必死に掴み取り、耳に当てる。
『ダメ!』
「……明里?」
 娘の声が、はっきりと警告を発していた。
「……そうだね。でんわにはでないと、ね」
「たっくん?」
 紙コップを掴んだまま呆然とする早苗に、幼子は寂しげな笑みを見せた。
「さなちゃん、またね」
「え、ちょっ」
 紙飛行機は急激に機首を上げ、早苗は捕まることも出来ずに滑り落ちた。幼子の姿が遠ざかる。視界は雲の白に染まり、空の青に染まり、地面すら突き抜け、真っ暗な闇の中を落ちていく。
 
「?!」
 びくりとして目が覚めた。ぼやける視界に懐かしい顔が二つ、並んでいる。
「おかあさん!」
「早苗!」
 娘と夫に涙に濡れた顔で見下ろされ、彼女はしきりと瞬きを繰り返した。
「お母さん……よかった……」
 明里が脱力して座り込む。その両手が、早苗の手を縋るように握っていた。
 周りで覚えのない声が慌ただしく飛び交う。
 傍らで、規則正しく機械音がしている。
 思考が、ゆっくりと現実を認識し始めた。
 泣きじゃくる二人を見つめながら、空いた手がおもむろに口元へと向かう。
 固い感触。
「……そうね」
 外しちゃダメね。
 小さく笑うと、早苗は娘の手を握り返した。
 
 


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