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【短編】マイマイ

「違う」
 簡潔で非情なる声が響く。
 闇のように濃い紫の法衣に身を包んだ魔女は、指先で摘まんだ小さなカタツムリを一瞥するなり言い放った。自信がないことを伝えたかった青年の口が、何か言おうと口を開く隙すらない。
「必要なのはホオジロマイマイ。これはサカシロマイマイ。テンシロマイマイならまだしもこれは全く違うもの。キミ、ここに来て何年経つの」
 切れ長の目が、にらみ上げるように青年を見つめる。射貫くような視線に、青年は体温が上がるのを感じた。
「……五年、です」
 やっとのことで口を開く。青年の言葉の尾に、魔女の言葉が重なる。
「マイマイ集めは基本中の基本。一年目でこなせて当たり前。その収集一つマトモにこなせないキミを五年も置いてあげている私、優しいと思わない?」
「そ、それはとても。とても優しいと」
「おべっか使う余裕があるなら、とっとと探し直す」
 脊髄反射でまくし立てる青年に、魔女は鋭い視線を投げる。
「はいいっ!」
 頓狂な声と同時に踵を返し、青年は研究室を飛び出した。
 
 草の香りが強い。
 雨上がりの森の中、青年はぼんやりと茂みを見つめていた。
 否。その瞳は茂みを通り越し、魔女の姿を思い描いていた。
 彼女に弟子入りする者は多い。彼女から巣立つ者も多い。というより、未だ収集一つこなせない青年の方が稀有である。
 魔女は魔女としての才能に溢れ、教え方も上手い。情報の出し惜しみもしない。唯一の難は物言いのキツさだが、青年はむしろ、そこがいいと弟子入りした。
 魔女その人に惹かれていたのである。
 彼女の側にいることが幸せで、姿が見えないと途端に無気力になる。存在自体が魔法薬のような人だ。飲み続けないと、まともに動くことすら出来ない。
 目の前を、マイマイがのそのそと歩いている。固く巻かれた渦巻きの貝から伸びる、柔らかな体。立っているのが不思議な角は、僅かな刺激で引っ込んでは伸びる。その角のすぐ下に、白い斑点があった。
 マイマイから顔を上げると、夕陽が辺りを赤く染め上げていた。一日が終わる。
 青年は迷わずマイマイをつまみ上げると、ガラス瓶に収めた。踵を返し、研究所に戻る。
 そろそろ夕食の時刻だ。魔女を煩わせるわけにはいかない。
 
「そう。これ」
 簡潔に感慨もなく呟くと、魔女はガラス瓶をテーブルに載せた。マイマイはのそのそと透明な壁を登っている。その様子を、彼女はじっと見つめている。
 その魔女を、青年は見つめていた。
 僅かに伏せられた瞳。長い睫毛が艶やかに覆う。何気なくテーブルについた肘。人差し指を口元に当てる仕草。憂いの表情は、青年の学びの遅さに対するものと思われた。
 彼女が自分のことを考えていると思うだけで、青年は舞い上がるような心地になる。
 マイマイの歩みの如く、時が遅くなれば良いと、切に願った。
「キミさ」
「――っ!」
 息が詰まった。
 魔女はいつの間に、青年を真っ直ぐに見上げていた。
「リスト作るから。明日集めてきて」
「え、あの」
「一個でも間違えたら、破門ね?」
 魔女は妖艶に笑う。先程とは別の意味で、息が詰まった。
「返事」
「……は、い……」
「よし。じゃ、ご飯にしよっか」
 魔女は立ち上がると青年の横をすり抜け、居間に向かう。
 青年は我に返ると、慌てて後を追った。
 
 パンは白、スープは赤、メインは魚。
 魔女の食の好みである。
 弟子の数だけ好みが分かれるため、共同でこしらえた夕食は種類が多い。師匠の食事は当番制で盛り付けるのが決まりで、今日は青年の持ち回りだった。
 用意された数種のソースを絶妙な配合で混ぜ、魚にかける。スープの具材を選り分けて器に盛り付ける。賑わう弟子たちの合間をすり抜けて食事を運び、空いたカップに蜂蜜酒を注いだ。
「ありがと」
 魔女はそう言って、優しく笑う。先程までと全く違う柔らかな表情に、己まで溶かされそうになる。
「ど、どういたし、まして」
「キミの作るご飯が一番美味しい」
 そんな甘い言葉まで続いた日には、本当に己が溶けたのではと心配になった。
「でも、明日は手加減しない」
 容赦のない言葉、鋭く甘い視線。対立する感情に、青年の体は半端な状態で硬直した。
 
 次の日。
 渡されたリストを手に、青年は森の中を駆け回っていた。
 リストが長い。一晩かけたのではないかと思わせるほど長い。マイマイの如く巻かれたリストには、これまで頼まれたことのあるもの、教えられたが探すのは初めてのもの、聞いたことのないものまでこれでもかと並ぶ。
 見付けたものは瓶に入れ、種類を書いた羊皮紙を結ぶ。量は多いが、すべてこの森にあるものだ。片っ端から入れていけば間に合うだろう。しかし、一部は図鑑と付き合わせねばならない。そのための時間をいかに残すかが重要だった。
 これに落ちたら、もう魔女のそばにはいられない。脇目も振らず、没頭した。
 集めたガラス瓶を持ち帰り、作業机一つ占領してずらりと並べる。他の弟子たちが目を丸くするのも気付かず、青年は鬼気迫る勢いで図鑑をめくり、集めてきたものの中で名を知らぬ種にラベルを付けた。リストと比較し、終わったものに線を引く。それが終わると、足りないものを探しに森へ走る。
 最後の一つを見付けて安堵し、ガラス瓶に収める。顔を上げると、日は殆ど暮れていた。僅かな光を頼りに文字を書き、羊皮紙を結ぶ。少しふらつく足で研究所に戻ろうとして、動きを止めた。
「お疲れ」
 いつの間に、魔女が立っていた。
「あ、あの」
 青年は最後の瓶を差し出す。魔女はやんわりとその瓶を押し返した。
「そんな。合って、いるはず、で」
「知ってる」
「……え?」
「研究所に置いてあるやつは全部見た。それが最後だから、中身を見れば合ってるか分かる。合格」
 安堵と疲労で、青年は草の上に座り込んだ。
「よかっ」
「だからキミは、今日で卒業」
 呼吸が止まった。
 少し考えれば、分かったはずだった。
 落ちたら破門。合格なら卒業。どちらの結末でも、残ることは出来ない。
 出来の悪い弟子をいつまでも置いていたら、評判に傷がつく。五年も見習いをさせる例は稀有だ。彼女のためを思うなら、大人しく出て行くべきだろう。
 それでも。
「僕はっ……!」
 せめて伝えようとした言葉が、魔女の指に遮られる。まっすぐ向けられた表情に色はない。だが、迷いのない動きが、強い輝きを放つ瞳が、青年の心を見透かしているのは明らかだった。
 分かっていて、止めている。
 瞬きを忘れた瞳から、涙があふれた。
「で」
 青年から離れ、魔女は背筋をぴんと伸ばす。掲げた両腕の間から、ぶわり、と、巨大な羊皮紙が舞った。
 風圧で、流れた涙が飛んでいく。
「今後のキミの進路」
 呆然とする青年の前で、羊皮紙が空中に垂れ下がる形で静止した。独特な線で描きこまれた二匹のマイマイに、視線が吸い込まれる。
「一つはハネツキマイマイコース」
 羊皮紙の裏から現れた魔女が、左端に描かれた小さなマイマイを示す。
「もう一つは、ハススミマイマイコース」
 今度は、羊皮紙の大部分を占めている巨大なマイマイ。
 誘われるまま二匹のマイマイを見比べた青年は、瞬きを繰り返す。目尻に残った涙が、地面へと吸い込まれた。
 状況に、感情が置いていかれている。
「あの……」
 ゆっくりと魔女を見上げる。
 何が違うのか、青年には分からない。そもそも、こんな名前のマイマイ、いただろうか。進路説明を受ける弟子というのも、前例が思い出せない。
「どっち」
「え?! あの、これ何が違う」
 急くような声音に、青年は慌ててマイマイを見比べる。
「あ、暗くて見えない?」
 そうじゃない。思っている間に、魔女が光の玉を呼び出す。淡い輝きが、羊皮紙の上を滑った。
「ハネツキマイマイは殻の中心から、ハススミは目からね」
 何が。と思っても、尋ねられる雰囲気ではない。仕方なく、羊皮紙に顔を近づける。大きい方が分かるだろうかと、ハススミマイマイの目の部分を指で辿る。
「あ」
 ミナライソツギョウ――見習い卒業。
 独特な線だと思っていたものは、細かく書き込まれた文字。マイマイの目の部分が、青年の現在地を示していた。
 卒業。その単語に揺さぶられながらも、続く文字を指で辿る。
「……え?」
 見習いの次に、初心者コースが続く。しかも一、二……と数字がしばらく続き、終わったと思ったら中級者も複数に分かれる。やっと上級者に辿り着く頃には、渦巻きを半分以上使い切っていた。その先も読み取ろうとしたが、どんどん渦の中に巻き込まれていく文字は潰れてしまっていて、何が書いてあるのか分からなかった。
 それに対し、ハネツキマイマイは卒業後別の師匠に弟子入りか独立の二つに分かれ、それきりである。そっけない文字数はマイマイを形作るのに足りず、残りは普通に線で描かれていた。
「これ、って」
 漠然と、感情が渦巻き始める。
「まだ?」
「いや、あの、えっと……ハススミ、で」
 無垢な瞳に見下ろされ、反射的に答えた。
「そう」
 途端に羊皮紙がくるくると巻き取られ、魔女の手の中に納まる。表情に色はなく、青年の選択に対する心境は読み取れない。
「あの、僕、ここにいても、良いんですか?」
 踵を返した魔女の背に、青年は問いかける。歩を踏み出しかけた魔女の動きが止まった。
 頭だけくるりと振り返る。
「キミは今日から、お仕事追加」
 そう言って、柔らかな笑みを浮かべる。
「私の食事、専属」
 ようやく状況に追い付いた心が、先ほどとは別種の涙を零す。
「返事」
「……はい!」
 青年ははじかれた様に立ち上がり、魔女を追って駆けだした。
 
 
終。


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