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第1章「星に触れる夜」第3話

「自己とは何か?」
現代のアイデンティティを探求する物語

ーAIと人間が共存する未来、
感情を巡る葛藤と希望ー


1-3話

その日の午後、所長である尊河レムがミラを会議室に呼び出した。

黒髪をオールバックにし、鋭い眼光を放つレムは、研究所の指揮を執るカリスマ的存在だった。彼の一言一言には圧倒的な説得力があり、周囲を黙らせる力がある。

「ミラ君、次回の公開実験についてだが……国からのプレッシャーが強まっている。結果を出さなければ、我々のプロジェクトは縮小される可能性がある」

レムの言葉に、ミラは動じることなく静かに頷いた。

「心配には及びません。EVE-4.7はこれまでにない精度で感情を解析し、操作を可能にします。実験は成功するでしょう」

「そうか。君の自信は頼もしい。しかし、どんなに優れた技術でも、人間の感情には予測不能な部分がある。感情というものを侮るな」

「といいますと?」

「そうだな、気づいた時には手遅れになっているということだ」

ミラは再度詰め寄るようにレムを見たが、レムは視線を合わせることなくそう言い残し、部屋を後にした。

ミラは一人、静まり返った会議室に立ち尽くした。仕方なく手元のタブレットに表示された感情データを見つめる。例の女性のものだ。

やはり感情のズレを示す波の形状はここ最近の被験者と変わらないものだった。ただ二日前に一時的だが数値のズレ幅が大きくなっているのが気になった。レムの言葉が脳裏をよぎる。

(感情には予測不能な部分がある……そんなことはわかっている。しかし、それはただのデータの欠損に過ぎない。その“予測不能”をなくすための技術がEVE-4.7であり、存在理由だ。自分が開発した装置を信じないのなら、なぜ彼はこのプロジェクトを推し進めている?)

ミラは眉をひそめた。尊河レムの言葉にはいつもどこか含みがあり、彼の本心が完全に読めたことはない。

(感情を侮るな、か……侮るつもりなどない。感情という数値化された信号を理解し、制御する。それこそが、無気力症候群に苦しむ人々を救う唯一の道なのだから。この女性だって感情が安定さえしていれば死を選ぶことはなかった)

深く息を吸い目を閉じる。前回の公開実験では成果は6割に留まった。それでもこれまで暗闇を手探り状態で歩いていたことを考えると、そこに一筋の光が見えたことは、国に多少の安堵をもたらしたはずだ。

それなのに、たった一年でさらなる成果を求められるとは。いまだ無気力症候群の患者が増え続け、不安に駆られている国民からの支持率が低迷していることに恐々としているのだろう。

(次はせめて8割の成果を出さなければ上は認めてくれないのだろうな)

とんでもない圧力をかけてきているということは理解している。しかしそこには怒りも焦りもない。自信、といえばそうなのかもしれないが、今の自分にできるのは、ただ冷静に現状を分析することだけだ。

ゆっくりと目を開き、襟を正すと、ミラは会議室を後にした。


研究室に戻りユニフォームである白衣を脱ぐとすぐ、椅子に腰掛け、ノバを開いた。今日のニュースのまとめが一覧として表示される。スクロールをしていく中で朝の飛び降り事件のニュースの続報が目に留まった。

映像を再生すると、画面には飛び降りた女性の簡単なプロフィールと、彼女が残したと思われる手書きのメモが表示された。

今どき紙にわざわざ残すというのはどういう心理なのか。メモは何かの裏紙のようで、カラフルな印刷面が透けて見える。しかしその文字は、頼りないが強い意思をはらんで、はっきりと読み取ることができた。

「わたしにはもう何も感じられない」

その短い文章が、ミラの視界に鋭く突き刺さった。
(“感じられない”……本当にそうなのか? 感情が失われたのか、それとも……)

ミラはモニターを切り替え、EVE-4.7のデータベースにアクセスした。そこには過去の被験者たちの膨大な感情データが記録されている。飛び降りた女性も以前、無気力症候群の治療プログラムに参加していた形跡があった。

(感情の数値は正常値を保っていた。なのに、なぜこんなことに?数値に影響を残さず突然感情が失われたというのか……?)

一瞬、胸の奥がざわつく。その違和感を振り払うように、ミラはキーボードを表示させ、無心で叩いた。

(無気力症候群再発の兆候が、どこかにあるはずだ。答えはデータの中にある。不具合でないのなら、それは数値化された感情が完全に制御されていない証拠だ。EVE-4.7に操作できない感情など存在しない。それを私は証明しなければならない。次回の実験で、確実に……)

冷静な表情を取り戻し、ミラは作業に没頭していった。しかし、画面に映る不完全なデータと飛び降りた女性の姿が、どこか心の奥に引っかかり続けていた。彼女の行動に何か説明しきれないものがあるような気がしたのだ。


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