煉獄母・瑠火の言葉と「運」について~劇場版「鬼滅の刃」無限列車編より~
鬼滅の刃無限列車編が諸々の条件も重なり、2020年最強のエンタメとなるのは確実で、日本映画史を塗り替える作品になりそうです。私も公開初日に「煉獄零巻」をゲットすべく、レイトショーを観てきました。感想はもう皆さんが仰ってる通り。涙が止まりません。コミックスは読んでいたので、感動作になるのは予想していましたが、その予想をはるかに超えていました。ストーリーはほぼ原作通りに映像化しつつ、原作を凌駕するクオリティで映像化されています。映像、音楽、演技、どれをとっても一級品です。後世に語り継がれる名作になるでしょう。
厳しくも優しい煉獄母の言葉
さて、映画の評価はこれくらいにして、今回は映画でも登場した煉獄母・瑠火の言葉。
「生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で 人を傷つけること 私腹を肥やすことは許されません」
もう仰る通りで、これが炎柱・煉獄杏寿郎の人となりを形作る基礎となっています。他方、こういう教えが必要ということは、逆に言えば天から賜りし力で人を傷つけたり私腹を肥やしたりするケースが多いとも言えます。
僕もこれまでの経歴を振り返る中で、お陰様でいろんな方と出会い、話をしてきました。大企業に居ると会社の人と取引先くらいの非常に限られた中で生活をしていましたが、起業を目指し、色んな異業種交流的なイベントに参加してみて、様々な分野の色んな社長を見てきました。そういう中で、壇上に上がって話すと立派なことを仰っているのですが、会話の節々に感じられる「狡猾さ」を感じる人も中には居ました。違法行為まで行っているとは思いませんが、結局は自分のことしか考えていない人も居ます。成功を鼻にかけていて、いけ好かないなあと思う人も居ました。そこで疑問なのが、「果たしてこうして成功している経営者は本当にその人の実力でその地位を勝ち得たのか?」ということです。
私たちの存在自体「与えられたもの」
事実、私たちを形成する殆どが自分で選んだわけではなく、与えられたもので生活をしています。例えば、頭脳や運動能力、外見の良さ。性格も、教えられて学ぶこともありますが、生まれ持っての性格もあります。例えば同じ兄弟姉妹でも、それぞれに個性があります。性格が教育によって形付けられるのであれば、兄弟姉妹でそれほどの差異は出ないはずです。ですが、僕自身兄弟や親との性格や考え方の違いに悩んできましたし、自分の子供たちも同じ育て方では対処できないくらい、それぞれの個性を持っています。良し悪しはさておき、十人十色は事実であり、産まれる前にそれらを選んできた訳ではなく、与えられていたのも事実なわけであります。
その後の人生で身に付けたスキルや人生観など、その人の努力で培ってきたものも当然あります。いわゆる、後天的か先天的かという話です。後天的な要素を否定する気は一切ございませんが、それでもなお、先天的な要素が非常に大きく、だからこそ成功しても謙虚であるべきだと思うし、失敗しても気にすべきではないと考えています。
結果は「運」に委ねるしかない
他人の努力、苦労のほどはいくら話を聞いても100%理解することは不可能です。その場で、自分自身で経験しない限りはなかなか十分理解はできないでしょう。ですので、そういった成功者や逆に失敗者がどういう人生を歩んでそこに居るのか、それはなかなか知り得ないのが実情です。ただ、自分の人生であれば分かります。僕自身、沢山の成功と失敗を体験してきました。概ね、学生時代までは成功体験の方が多く、社会人になってから失敗体験の方が多いと感じています。その中で、何が上手く行って何が上手く行かなかったのか。これを考え抜いた結論は「運」です。確かに、個別事案でここでこうすれば良かったとか、こうしたから良かったと思うことはあります。これはこれで事実でしょう。ただ、こうすれば、と今思ったとしても、じゃあその時こうしたのかと言われれば非常に疑問です。やっぱり、結果は同じだったかもしれません。皆さんも自分の人生を振り返ってみて下さい。成功したときは自分の能力が主要因でしたか?失敗は自分の全責任でしたか?
これは経営学の事例研究などでも同じことが言えます。事例研究をする際、結果を知ったうえでああだこうだと議論します。トヨタのあれが良かった、アップルのこれが素晴らしい等々。答えがある中でこうすれば、ああすればと言うのは非常に簡単です(勿論、そうしてブレストする意味はあると思いますが)。ただ、実際にその場に居たときに自分はどう判断するのか。答えが見えない状態で一定の仮説を立て自分なりの答えを作る。この状態にいるときに、結果がどちらに転ぶかは誰も知り得ませんし、最終的に転んだ先は「運」によって決まるとしか言いようがありません。その時の判断と結果を知ったうえでの判断は全く別物なのです。
成功者が偉い訳でもなく、失敗者がダメ人間な訳でもない
僕が言いたいのは結局は運なんだから適当にやってしまえ!という訳では決してありません。その真逆で、結果は運であり分からないからこそ、できる限り考え抜くべきだ、と思っています。僕が言いたいのは、結果は運で決まるんだから、成功しても謙虚であるべきであり、失敗しても気にしなくていい、ということです。つまり、今頑張っている課程と結果は別物で考えるべきだということです。
煉獄母の言葉に戻ります。
「生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で 人を傷つけること 私腹を肥やすことは許されません」
この言葉も、僕の「結果は運」論に通ずる考え方だと思っています。煉獄母は息子・杏寿郎の武術のセンスを「天から賜りし力」と言っています。また「人よりも多くの才に恵まれた者」と言っています。”たまたま”杏寿郎には剣術の才があり、”たまたま”その弟・千寿郎にはその才が無かった。もちろん、杏寿郎の才能は元柱でもあった父・槇寿郎やその祖先から引き継いだものかもしれません。ただ、そういう煉獄家に生まれたのも「運」ですし、千寿郎には武術以外の才があり、結果的に鬼が居なくなった時代ではそちらの方が活躍の機会が多いかもしれません。煉獄家の闘いの血を引き継がなかったことも「運」ですし、実はその方が良かったのかもしれません。
このように、与えられた条件を基にして、結果がどうなるかは誰にもわかりません。どんなに恵まれた条件で、ベストを尽くしても上手く行かないことは多々ありますし、その逆で逆境の中、誰が見ても厳しい状況でもなぜか上手く行くこともあります。結果論の世界では、こういう事をしたから良かった、こういう事をしなかったからダメだったと言います。結果論で語るのは簡単ですが、ある意味においては、それは人間の傲慢さかもしれません。一人一人の人間はそれほど万能な存在ではなく、「運」によって左右される儚い存在と考えた方が実情に合っているのでは、と思う次第です。煉獄母も、そういう思想をベースに、剣術の才に恵まれた杏寿郎が調子に乗って傲慢になるのをたしなめ、またその際に恵まれなかった千寿郎にも可能性があることを伝え、結果として、立派な柱となった杏寿郎や素晴らしい人格を持つ千寿郎に育ったのではないかと推察しています。
最後に繰り返します。人生は運というのは、決して開き直るための言葉ではなく事実であり、だからこそ成功しても謙虚に、失敗しても気にしない姿勢が肝要である、ということです。成功という結果を求め、プロセスで一生懸命努力する。このことは大変素晴らしいことです。ですが、過程でベストを尽くしたから成功するかと言うとそれはまた、別問題です。成功しても運ですし、仮に失敗してもそのプロセスから得られるものも多く、いわゆる「失敗は(次の)成功の基」になるかもしれません。そう思うと、少し気持ちが楽になりませんか?それだけでも、意味がある考え方かなと思っています。
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