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アケミちゃん

ミキは物音を立てないように、

動くことをやめて耳をすませていた。

ガラス戸一枚隔てた向こう側で、

アケミが呼んでいるからだ。

「ミーキーちゃん。ミーキーちゃん。」

粗末な公営住宅には玄関などなくて

靴を脱いだらいきなり居間だった。

靴は外に置いたまま、ガラス戸一枚で

外と部屋が仕切られている。

つまり、アケミにはミキの脱ぎ捨てたスニーカーがみえている。

だからここにいることもバレている。

それでもミキは返事をすることができないで、息を潜めていた。


さっきまでミキは、公園でアケミと遊んでいたのだ。いつも二人は仲良しで、小学校の休み時間には一緒にマンガを描いたり、紙飛行機を折って飛ばしてみたり、雲の形が何に見えるかクイズを出し合ったり、校庭の隅の物置の裏でひっそりとダンゴムシを掘り起こしたりして、大勢で楽しむよりも静かに過ごす時間を共有できる友達同士だった。

その日は学区から少し離れた公園まで冒険ごっこと称して出かけ、みちみち紙に地図を書きながらたどり着いて、家のそばにはない6人乗りの大きなシーソーで遊んでいたのだった。

片方に3人ずつ乗れるシーソーに、1人ずつ乗って、高く上がって空に近づいたり、地面に埋め込まれたタイヤにバウンドする感覚を、二人で面白がって長い時間をその公園で過ごした。冒険の最後に、二人だけの大きな無人島を見つけたような気持ちだった。


二人は、同じ公営住宅で生まれ育った境遇だった。同じ保育園に預けられて、暗くなるまで2人きり、迎えを待ったこともあった。アケミの家は今時珍しい6人兄弟で、彼女は末っ子だった。ミキの家は兄弟はなく、父もなくて母と二人暮しだった。だから保育園のお迎えは勤め帰りの母親がくる。アケミの場合は、中学校の部活帰りの姉が来るのだった。ミキは大きな姉がいるアケミを、少しうらやましく思っていた。


小学校に上がり、同じクラスになった二人は、ますます仲が良くなった。子供らしく走り回ったり騒いだりするよりも、静かに時間を共有するが楽しいと、おそらく二人ともが思っていた。


「あのね、これ、内緒だよ」

学校の帰りにアケミが、小さな声で打ち明けた。

「うちのお父さん、60歳を過ぎてるんだよ。だからもう、おじいちゃんなんだよ。内緒だよ」

ミキは、60歳を過ぎている、ということの意味も分からず、ただそれが秘密であるということを特別に感じた。このことは、他の誰にも内緒の、二人だけの秘密なのだ。

「あのね、うちのお父さんはおじいちゃんだから、鉛筆をカッターで削るんだよ。短くなっても捨てると怒られるよ。うちは、貧乏だから。」

「わかった。誰にも言わない。じゃあね。またね。」

ミキはアケミと別れて家に帰りながら考えていた。おじいちゃんだとどうして内緒なのかな。でも、秘密だから、絶対誰にも言わない!



シーソーで高く高く飛び跳ねながら、大きな公園の遠く向こう側の入り口から、4.5人の同級生がワイワイとこちらへ向かってくるのをミキは見た。

ミキより頭一つ背の高い女の子がリーダーの、同じクラスのグループだった。クラスで一番小さいミキは、彼女と話す時いつも少し怖くて、苦手だった。

「一緒にあーそーぼ!」

あっという間にこちらに近づきながら、彼女たちはシーソーに手をかけた。何か答える間もなく、ひとり、ふたりとシーソーにまたがって、一気にその場が賑やかになる。ミキは萎縮して、なすがままに上へ、下へと動かされていた。

「いいよ!遊ぼう!でも、順番こね!」

アケミは優しく答える。

「なんで?みんなで乗れるじゃん。これは巨大シーソーだから、みんなで乗るんだよ。でも、ミキちゃんはだめ!」

突然、ミキちゃんはダメ、と言われて、ミキは胸の奥に突然、冷たくて大きな氷の塊が挟まったように思った。

「なんで、そういうこと言うの」

アケミがそっとたしなめる。

ミキの座っているシーソーは、地面に埋め込まれたタイヤの上に降りている。そして、アケミは優しい声を出しながらもはるか上の、別の世界にいた。まるで知らない人のように感じられて、ミキはアケミの顔を見るのが急に怖くなり、シーソーから降りてくるりと背を向け、走り出した。

「ミキちゃん!」

知らない遠い場所から、アケミが叫んだようだった。走るというより逃げるように、ミキは公園から飛び出して、そのまま止まらなかった。体はあっという間にカッカして、口から出る呼吸もひゅうひゅうして熱いのに、胸の奥にある塊は硬く冷たい。走って走って、家のそばまでたどり着いてから、ミキはこんなに熱いのになんでほっぺただけが冷たいのだろうと思った。熱い涙が後から後から流れ出て、冷えた頰を温めているかのようだった。




「ミーキーちゃん。ミーキーちゃん」

ガラス戸の向こうで、アケミがまだ呼び続けていた。ずいぶん時間が経っている。なんだか、泣きそうな声にも聞こえた。アケミはおそらく、みんなと遊ばずにミキを追いかけてきたのだ。

けれど、泣いて逃げた自分が、顔を出して何をいえばいいのか分からなかった。家には誰もおらず、アケミと冒険に出かける前にランドセルを放り投げたままの部屋だった。テーブルの上には朝に食べた食パンがそのまま乗っている。二人暮らしの小さな部屋は、いつもそうだった。きっと今日も、母は遅くに帰ってくる。


「うちは大家族だから、みんなで並んで寝るんだよ!」とアケミが話したことがあった。「狭くて、窮屈だよ。お風呂もね、みんなで入るからすぐにお湯がなくなるよ」


ミキは、母が遅ければ先に一人でお風呂に入る。そして帰ってくるまで一人で待っているのが当たり前だった。

アケミちゃんは、いいな。

かっこいいお姉ちゃんが、お迎えに来る。

アケミちゃんは、いいな。

お父さんもお母さんも、家で待ってる。

いいな。いいな。



自分の名前を呼び続ける友達の声を聞きながら、部屋に一人でいる自分がどんどん惨めになって、まるで畳の中にずぶずぶと沈んでいくようなきもちだった。

さっきまで、確かに二人は同じ世界にいたはずなのに、突然自分だけがそこから追い出されたようだ。
紙飛行機を学校の2階の廊下の窓から飛ばして、高い高い木の上まで風にあおられて引っかかってしまった時、「みんなは知らないけど私たちはいつもあそこに紙飛行機があることを知っている」ということを誇らしく感じたこと。
二人で交互に1ページずつ描きすすめたマンガを、どこの出版社に応募しようか決められなくて、大人になったら相談しようねと言って、缶に入れて公営住宅の公園の木の下に埋めたこと。
確かにあった出来事なのに、そこにいたのは自分ではなく、あるいは知っているアケミではない人のことだったように感じられる。自分の本当の居場所は畳の下の緑の世界だったのかもしれない。木の上の紙飛行機も埋めたマンガも、本当にそこに、あるのだろうか。


外が薄暗くなり、学校のほうから17時のオルゴールが鳴り出した時、いつのまにか自分を呼ぶ声がしなくなっていることに気がついた。

ミキは、レースのカーテンの隙間から外に誰もいないことを確認してから、そっとガラス戸をひいた。

から、からから。と音を立てて、レールの上をガラス戸が動く。からん。と乾いた音がした。

レールの上に、鉛筆が一本、そっと置いてあった。

冒険ごっこだから、地図を書こう!と言って、

持ち出したミキの鉛筆だった。

ポケットに入れやすいからと選んだ、短くなって、ちびている、ピンクの鉛筆だ。


もう夕日は濃くなって、空気は静かに澄んでいる。緑色に見えていた世界が、綺麗な透明なオレンジ色に変わっていた。

「うちのお父さんはおじいちゃんだから、短くなっても捨てると怒られるよ!」

アケミはこの鉛筆を渡したくて、あんなに何度も何度も、ミキの名前を呼んでくれたのだ。


ミキは汚れたスニーカーを見下ろして、とてもアケミに会いたいと思った。鉛筆ありがとうと言ったら、なんて言うだろう。「お父さんがね、鉛筆は大事にしろって言ってたよ!」って言うかな。ミキはスニーカーを履いて、すぐそばのアケミの家まで走り出した。右手にはピンクの鉛筆をにぎって。








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