満月の夜話(8) - ミラクルムーン -
シャーペンの芯が折れた。
シャーペンをカチカチとノックした後、再び書き出そうとするが芯は力なくフニャりと引っ込んでしまった。
「シャーペンの芯、まだあったかな・・・?」
そう独り言をつぶやいて、机の上の筆箱を手元に寄せた。
その時、この春に初めて買ってもらったケータイ電話が目に入った。
ケータイ電話の画面には『23:55』と表示されている。21時から始めたはずのテスト勉強だったが、こんなにも時間が経っていた事に、私は初めて気が付いた。夜更かしも夜遊びも知らない田舎町の女子高生の私にとっては、十分に深夜と呼べる時間帯だ。
シャー芯が折れたせいか、いやケータイ電話が目に入ってしまったせいか、ふと集中していた気持ちが切れてしまい、薄い音量で鳴っていたラジオに耳が傾く。ラジオからは今週の音楽チャート3位に入ったモーニング娘。の
「 恋のダンスサイト 」がリクエスト曲として流れていた。
ふぅ、と息をついて、首をゆっくりと回す。
もう家族は寝てしまっているだろうか、家の中はとても静かでラジオの音以外に何も聞こえない。いや、家だけじゃない。窓の外も、遠く遠くの方まで静かな気がして、私は久しぶりに椅子から立ち上がると窓に近づいた。
窓の外が妙に明るい。真っ黒なはずの深夜は意外なほど明るかった。遅咲きの桜と夜の境界線には紫色の淡い光が漂っているようにすら見える。
既に気付いてはいたが、改めて小さな窓を開けて首を出し、そのまま夜空を見上げた瞬間、私は小さく胸を鳴らした。
「やっぱり。・・・今夜は満月だ。」
高校2年生に進級し、クラスが新しくなった。新しい顔ぶれに馴染めない空気が漂う2年生の教室の中で、私は池田君の姿を見つけた。彼と一緒のクラスになれた事に私は喜びの笑みを浮かべる、あくまで心の中で。
池田君が自分と同じ予備校に通っている事は1年生の頃から知っていた。彼が同じ学校の生徒である事も知っていたし、廊下ですれ違った事もあった。
しかし学校の中では会話をした事もなければ、目線があった事すらない。なぜなら、池田君はサッカー部だし、学年の中でも存在感が強い人だから。
一方の私はといえば、中学生の頃までの水泳部に見切りを付け、高校生になってからはずっと書道部。書道部は活動自体が少なかったため、実際には半分帰宅部。引っ込み思案な性格も合わせた結果、私の存在感は薄い。
だから同じ学年の中でも視線すらぶつからない事を不自然に思わないどころか、その事に妙な納得感を持っていた。その感覚によって学校という特殊な空間を理解していた気がする。
一方で、塾や予備校は学校とは空間が異なるためか、時に学校内のヒエラルキーを無視したアクシデントが起きる事がある。
高1最後の模擬テスト直前、塾の帰りがいつもより遅くなった1ヶ月前のあの夜、塾講師の安田は遅くなった生徒に対して、防犯上の意味を込めて家の方角が同じ者は一緒に帰宅するよう指示した。
そのため、自宅の方角が近いという理由で、私は池田君と一緒に夜道を歩く事になってしまった。
男の子と2人きりで歩くのは恥ずかしかった。だから池田君の一歩後ろで、頭一つも二つも背の高い池田君の背中、たくましそうな肩に掛かるカバンだけを見ながら俯き加減で歩いた。
部活動用のカバンの中には何が入っているんだろう?サッカー部指定のカバンなのに、どうしてこんなにオシャレに見えるんだろう?
私達は当たり前のように続く暗い夜道を、ずっと無言でペタペタ歩いていた。やがて住宅街への閑静な一本道に差し掛かった頃、池田君は立ち止まり突然声を上げた。
「あっ、今夜満月だ!!ほら?」
それは部活動の時のように大きな声だったので、私は身体をびくりと震わせて驚いた。そして池田君が急に振り返ったので、私は更にもう一度驚く。
予想外の声と行動だったためか、彼が直前に何を言ったのかをすぐに思い出せず、返す言葉と視線の置き場所にオロオロと迷う事となった。
「満月!ほら、満月!」
続けて彼が嬉しそうに空を指さした。
私は彼の指に一本釣りされるように首を動かし、真っ暗なはずの夜空を見上げた。分厚い雲の切れ間からは、確かに彼が言う丸い丸い満月が見えた。
満月のせいか、その夜空もまた黒ではなく雲全体が青っぽい色をしていた。
「満月が好きなんですか・・・?」
私はそう言った直後に激しい後悔と自己嫌悪に陥った。確かに焦っていた、そして緊張していたとはいえ、なんと的外れな返事なのだろう。
まともな事を言えない自分を、自分自身の口下手を憎んだ。
それでも彼はそんな的外れな私すらも救ってくれた。彼は笑った。その笑い声はやはり夜には似つかわしくないような大きな声に聞こえた。
「満月が好きって訳じゃないけど、でも大体みんな満月好きじゃない?」
「・・・うん、そうかも。」
「なんかロマンティックで良くない?満月って。」
月を背にして、おどけるように顔をくしゃりと潰して笑う彼。
彼の顔は私の顔よりずっと上にある、そして周りは暗い。だから私は満月を見るような振りをして彼の綺麗な顔をこっそり見つめた。
口を広げて白い歯が覗く口元、くしゃくしゃに無邪気なシワを作った目尻。満月はそんな彼の笑顔に月光を浴びせた。
その瞬間、私 。
ラジオから流れるモーニング娘。の歌は終わり、ラジオDJが何かをペラペラと流暢に話しながら番組を進行していた。
あの満月の後日、ひょんな事から池田君と電話番号を交換した。彼の名前が自分のケータイ電話の電話帳に登録されているのを眺めて、嬉しい気持ちと恥ずかしさ気持ちを手軽に味わうには重宝したが、実際に電話をした事はもちろん一度も無かった。
今夜の満月は、引っ込み思案な私にイタズラめいた勇気を芽吹かせた。
「ワンコールをしてみようかな・・・?」
今夜なら・・・満月の今夜なら勇気が出せる気がしたのだ。私は机の上で充電していたケータイ電話を手に取るとケータイの中の電話帳を開く。
『池田 昌也』
その名前が小さな液晶画面に表示された瞬間、やはりドキリとする。
やっぱり止めようかな・・・と弱気になったり、今夜を逃したらもう次のキッカケは無い!と強気になったり。そんな問答を繰り返しているうちに心臓の鼓動はますます速くなり、寒くも無いのに手足が冷たい。
プールに飛び込む時のように、あるいは真っ白な半紙に一画目を書き出す時のように、意を決して冷たい指で緑色の通話ボタンを押し、ケータイを耳に当てた。
『ツ・・・ツ・・・ツ・・・』
規則正しい電子音が繰り返しが赤くなっているであろう私の耳に届く。
やがてその電子音が途切れる。心臓の音がうるさい。
『・・・プルル』
呼び出しが始まった電子音を聞いて、私は慌てて耳からケータイを遠ざけ、すぐに電話を切った。液晶画面が元の待受け画面に戻った事を確認するや、まるでプールの水から顔を出した直後のように、大きく息を吐いた。
酸素が足りないわけではない。部屋が暑いというわけでもない。にも関わらず、私は耐えきれなくなって窓を開けて首を出し、もう一度満月が満月である事を確認した。手の中のケータイ電話をぎゅっと握りしめ、ココロと心臓を大きく震わせながら私は想った・・・
彼のケータイに残ったはずの『着信アリ』の文字。
彼はそれをどんな気持ちで見るのかな・・・?
彼が着信履歴を確認して、そこに私の名前が表示された時・・・
彼はどんな気持ちになるのかな・・・?
『 こんばんは 』
『 まだ起きてますか? 』
『 今夜は何時くらいまで勉強しますか? 』
『 明日のテストも頑張ろうね。 』
『 数学の公式はもう覚えた? 』
『 池田君は数学が得意だよね? 』
『 今日の英語のテストは思ってたより簡単だったね。 』
『 明日からサッカー部は部活再開? 』
『 私はね、もうそろそろ眠いよ。 』
『 もしかして、もう寝てた・・・? 』
それから、それから・・・
『 今夜は満月だね。昌也君は気付いてた? 』
私の色々な気持ち、たくさんの気持ちを込めたワンコールだよ。
そこには言葉なんて無い。ただ着信履歴に私の名前が残っただけ。
それだけで、昌也君はどれくらい私の気持ちを分かってくれますか?
もしかして、もっとそれ以上の気持ちを分かってくれたりしますか?
口下手な私だから、あなたを目の前にしたらホントの気持ちなんて、絶対に言えない。もし私が口下手ではなく、このラジオDJのように流暢な唇を持っていたとしても、この気持ちの全てを言葉にする事なんて絶対に出来ない。
なら、言葉に出来なくてもいい。
声にしなくてもいい。
文字や手紙ではこの気持ちを伝えきれないから。
それなら1回のワンコールの方がよっぽど彼に私の気持ちを伝えられる気がしたから。
私はもう一度、満月を見上げた。
彼が今、同じ月を見上げている事を願いながら。
彼が今、同じ事を考えている事を願いながら。
そして、震える私の手の中のケータイ電話が短く震える事を願いながら。
了
世代を選ぶ内容だったと思いますが、お読み頂きありがとうございました。
今回の記事はアメブロ時代に書いた記事の令和リメイクです。
当時は音楽を聞いて、無理矢理に物語を作るという修行に励んでおりまして、今回のお話は以下の楽曲を聞きながら考えました。
凄く素敵な曲なので、よければ聞いてみて下さいね。
ちょっとバタバタしており、自分の事で手一杯だったこともあり、皆様の記事を拝読出来ておらず申し訳ございません。もうすぐ繁忙期を抜けるので、必ずお邪魔します(。>﹏<)💦
次回の満月は5月23日(木)です。