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SDGsのモノ申す
最近SDGsという単語をよく耳にするようになった。コロナウイルスの影響なのだろう、この未曾有の災害を前に、持続可能な社会を目指そうとする動きが強まっている。
コロナウイルスは、今まで社会に存在してきた問題点を浮き彫りにした。それは全世界に拡大する格差の問題であったり、グローバル化という概念が内包するリスクであったり、気候変動が我々人類に与える影響であったりといったところか。これらの社会的な課題について、SDGsという概念的目標の追及が解決の糸口になりえるのかを考えていきたいと思う。
個人的な考えでは、SDGsの概念そのものにはいくばくかの危険性があると思っている。SDGsは一面的には正しいことのように見える。だが、我々は経済的に成熟し、曲がりなりにも民主主義と自由を尊重する先進国の人間としての目線でしかSDGsを考えていないのではないか、と思うのだ。さらにいえば、SDGsに賛成する人間は国家の中でも恵まれたエリートたちに多く見られる。
素っ気なくいってしまえば、SDGsという概念的目標は、ある意味で世界で最も恵まれた人間たちが考える正しさなのだ。そして今、恵まれたエリートたちはその正しさを世界に広めようと躍起になっている。
この構図、実は歴史的にはよく見られるものだ。例えば第二次世界大戦後の資本主義経済の喧伝。例えば啓蒙時代個人の自由と民主の概念の普及。例えば宗教革命のときの福音主義。例えば帝国主義の時代の進歩主義。これらに共通するのは、当事者たちにとってはこれらの概念は全くの正義の行いであり、それを広めることが使命である、と躍起になっているところだ。西洋近代史では頻繁に出てくる構図。
そして残念なことに、歴史が語るには、このような西洋近代的な概念の正しさを喧伝する行為は大体後に起こる大きな悲劇と一セットになっている。
SDGsの概念についても、この構図はしっかりと当てはまる。SDGsの掲げる目標のなんと西洋近代的な代物であることか。
念のために申し添えておくと、私は西洋近代的な価値観や概念を揶揄したいわけではない。そこではなく、同じ構図を繰り返さないようにするには、その価値観を相対化させた上での対話や政治が必要となるのではないかと言いたいのだ。
我々に必要なのは、概念としての正しさではなく、それを実行するための政治的あるいは対話という名前の手段であると思う。正しさを主張したとしても、そこに常に相互理解が起きうる可能性は低い。それは歴史が証明していることなのだ。
SDGsが新たな帝国主義とならないことを切に願う。