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『There Will Be Blood』はなぜ傑作とされているのか?

 2000年代ってなんだったんだろうと考えることがある。例えば音楽では、J Dillaのようなオングリットでは無いビートの揺れやダブステップの様な新しいビートはあったものの、印象に残るのは、ロックンロールリバイバル、ポストパンクリバイバル、アメリカーナ、00年代後半におけるトーキングヘッズの再解釈したインディバンド群だったような気がする。勿論カニエ・ウェストというとてつもない才能が生まれたディケイドでもあるのは承知していますが2010年の『MBDTF』と13年の『Yeezus』があるので00年代の人とは括れない。そして映画に目を移すと00年代に活躍した作家の大半は90年代に長編デビューしていて過渡期という印象を与えるような気がする。スティーヴ・マックィーンのような優れた作家もいるものの、10年代における照明による撮影の進化、音楽の使い方による時代背景のディティールを鑑みるとその萌芽があった時代とはいえる。『ジェシージェイムズの暗殺』、『ゾディアック』『アバター』辺りが特化した表現を生み出した。という印象がある。
 ざっくり俯瞰すると歴史を再定義・再解釈することが00年代の一つの傾向であったのは間違いない。グローバリゼーションの見直しからローカリズムが再発見されたという言い方も可能かもしれない。
 そんな中で独自性を貫いたヨーロッパ指向のウェス・アンダーソンとアメリカ映画を引き継いだ本稿の主題を撮った映画監督であるポール・トーマス・アンダーソンは特別な作家だったいえるかもしれない。『断絶』を撮ったモンテ・ヘルマンもインタビューの中で「二人のアンダーソンは別格」と太鼓判を押していたし(『モンテ・ヘルマン語る---悪魔を憐れむ詩』より)、作家とクリティックの評判を集めていたのは間違いない。そんな監督の最高傑作と呼び声が高く、アカデミー賞に8部門ノミネートされたことなど序の口とさえいえるほどの評価とクラシックとしての位置をおさめているのがこの『There Will Be Blood』だ。

ネタバレしない程度に物語に触れておこう。20世紀初頭のアメリカ西部。
主人公であるダニエル・プレインヴューはニューメキシコで探鉱中に銀を発見するが、脚を骨折してしまう。足を引きずりながらサンプルを分析所に持って行き、銀と金の採掘権を得る。遺児であったH・Wともに油田を探している。その折ポールという青年から油田の在りかを聞きつけたダニエルはサンデー牧場に赴き、採掘権を買い取り、油脈を掘り当てるが…というプロット。アメリカの歴史をもう一度捉えなおしながら物語を紡ぐこと――00年代の象徴的な視点によって作られた映画なのは間違いない。


しかし、わたしはそれ以上の意味があると思っている。象徴的なのは最初のシーンで、ファーストショットのニューメキシコの山から、穴の中にパイプを差し込んだあとのその上下の運動、そこでけがをしたダニエルが足を引きずったまま穴を這い出し、またニューメキシコの山のショットに戻る。つまりここにあるのは行ったり来たりの運動とそのなかで非力な人間の挙動そのものである。初めて宣教師たるイーライの教会の場面もダニエルと一緒に入っていきその外に出ていくまでカメラが長回しのまま付いていく。前半の油田事故の時の事件現場と被害者の往復、極めつけは最後のシーンでの動きと最後のダニエルのセリフだ。それは映画についてであると同時に往復運動することそのものについてのセリフに他ならない。
そして、この往復運動は我々の生活そのものでもある。家を出て家に返ってくる。ベットからでてまた戻ってくる。移動をしつつ生活圏を時に変えながらも往復を繰り返す。その運動のなかで、家族と宗教と自然と時代の変化と尽きることのない野心に向き合うことについての映画だと思うのだ。これは2023年の現在においても有効であり、人生の一つの暗喩としていまだに光を放ち続けている。ダニエルという存在がいかに非人間的で悪魔のように冷徹な人間として描写され、そこに鑑賞者として感情移入できなくても生活者の生き写し足りえているのはその動きがあり、その動きこそD・W・グリフィスやバスター・キートンが捉えてきたものだ。そのだからこそ『There Will Be Blood』は00年代を象徴する映画であり黙示録になりえたと思っている。

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