The 1975の来日公演を観て感じた、興奮と表裏
去る4月24日、東京ガーデンシアターで行われたThe 1975のライブに行ってきた。感想を先に書いてしまうととても良かった。『Stop Making Sense』を彷彿とさせるステージ・セットとVoマシュー・ヒーリーの弾き語りからメンバーが出てくる冒頭。と同時に「A Theatrical Performance Of An Intimate Moment(=親密な瞬間の劇場的なパフォーマンス)」の略である「atpoaim」の文字がスクリーンに映されたことが象徴的だが、システマティックな演劇的要素は無く、セットリストの移り変わりや偶然性をも取り込もうとするような可変性を備えたステージングは絶妙だった。ツアーを回りきっているからか演奏は文句なし。ツアーのタイトルと最新作がThe Beatlesの『Get Back』のセッションに影響されていることも手伝い、彼らのルーツ、バンドという形態にフォーカスされたステージになっていて見事。2023年の景色としても素晴らしかった。
ところで、私はThe 1975のファンではあるものの、彼らにはとんでもない「アルバム」はないと思っている。彼らのレコードがLP2枚分の長尺レコードを良く作ってきたというのも関連しているかもしれない。『A Brief Inquiry into Online Relationships』と『Being Funny in a Foreign Language』はとても聴いているがどこか手放しで「最高!!!」と言えないものがあると感じていた。
ライブの中盤で、一つ気付いたことがあった。楽曲が変わってもジョージのドラムが2拍目と4拍目にスネアを軸にしていて、ほとんど裏の拍にスネアが入ったりタムをフィルイン以外で入れたようなリズムパターンが無かったんだなと。勿論これは悪いことではないし、恐らくは今回のツアーにおける一つのテーマでさえあったのだろうと思う。彼らのレパートリーには「TooTimeTooTimeTooTime」のような裏拍に意識のあるトラックもあるが来日公演では一度も演奏されなかった。シャッフルからラモーンズを経て築かれたオーセンティックなバックビートを多用するというのも問題ない。
しかしほぼすべての楽曲が(ロスのベースラインが1.3拍目の強調することを含め)「表」によって作られているという事実は、自分が今一つ彼らのアルバムにドはまり出来ない事や日本で人気が高いことを非常に納得させてくれたのである。ライブの最中思わず「あー、そういうことか!」という思いが去来し、生でTHe 1975を見ることが出来ている興奮を一時飛び越えてしまったのだった。
なぜ国内のバンドが四つ打ちばかりの楽曲が一時期流行ったのかといえば、日本におけるリズムとは表でとるものが大半だからである。トラップが流行りテンポが落ち、リズムが細かくなった以降のビートを持った曲が日本で爆発的なヒットにならないのも恐らく関係しているだろう。世界的には遥かに人気なArctic MonkeysよりThe 1975やManeskinの方が国内で受けているのもこのリズムは大きくかかわっていると思える。Arctic Monkeysの最新作における先行シングル「There’d Better Be A Mirrorball」がリリースされた時、 明確なフックをもたずコードとベースラインが徐々に変わっていくことで(まるでミラーボールのように)無限の変化をつけていく曲調、そして裏拍とシンコペーションに意識のあるJazzのリズムに戸惑ったようなリアクションが多かったことも思い出してしまった。
この「表」への意識を非常に理解しているのは星野源だと思っている。彼の最新作『Pop Virus』から先行して切られた「恋」、「アイデア」、「Family Song」はいずれも表拍の楽曲。アルバム曲になると裏拍を強調したもっと複雑なリズム(8より16)を使うものが増えるのである。間口を広く奥行きを深くを地で行くJ-POPのレコードを彼は作っているという意味で日本のポップスター的地位を獲得しているのも頷ける。
この来日公演の数日前にオンラインで見た今年のCoachellaでは、ロザリアやバッドバニーが如何に現行のポップミュージックのなかで光を放っているかを思い知らされたが、彼らの音楽の半数のリズムは裏拍が強調されたものであるということも明白な事実。私は日本でロザリアやバッドバニーの公演が見たいと真剣に思っているし、両アーティストとも日本語を使った楽曲があるほど日本を好いてくれているみたいだが、The 1975のライブで気付いた事の根深さを考えるとなかなか難しいんだろうなぁと感じてしまった。どうやったら彼らの音楽を共有できるのかと考えながらの帰り道だった。