『天気の子』の極めて否定的な感想
天気の子の感想です。ネタバレを含むのでご注意ください。また、私は『天気の子』という映画に極めて否定的です。そのことをご承知の上でお読みください。
結論
つまらない作品でした。あるいは私はこの作品の読解に失敗しました。いずれにしても雑な作品であったことには変わりないと思います。
欠点
・内容の薄さ
本編中で語られているストーリーは114分という上映時間に見合った分量ではなく、何度も描かれる東京の街並みや意味のない描写に飽き飽きします。
繰り返される東京の街並みは綺麗ですが、雨ばかりで20分もすれば新鮮味を失います。また、物語は事実を列挙するのみで登場人物同士の関係性が掘り下げられないまま、独白を中心に時間が進みます。『天気の子』は登場人物の掘り下げの浅さが致命的だったように思います。
凪が陽菜の弟であると分かるシーンでは、凪と帆高の関係性が深まっていく過程に期待しました。しかし次のシーンで三人はもう仲良さげに晴れ女ビジネスを始めようとしていました。観ていて何の感慨もありません。
陽菜が雷を呼び凪が衝撃を受けるシーンでは、"晴れ女"の新たな側面による展開と陽菜に対する凪の態度の変化に期待しました。特に何もありませんでした。
・リアルな描写とアニメ的展開の切り替え
『天気の子』では、東京の街に固有名詞が多く登場し、帆高たち三人がホテルでカラオケをするシーンではAKB48、星野源の楽曲が歌われます。
こういったシーンから、『天気の子』は現実と同じ世界での物語を描いていることが伺えます。そして作中世界が現実と地続きであることによって、東京の異常気象とそれを唯一解消できる陽菜の異質さが際立つのでしょう。
ならば、天気や陽菜に関わらない部分ではリアリティを突き詰める必要があったのではないかと思います。しかし『天気の子』には、無能な警察やアニメチックな逃走劇など要所要所でリアリティの無い描写が見られます。東京をリアルに描いた以上、『天気の子』にこれらの描写は逆効果です。いっそ東京を完全に"アニメ化"し、作品全体を"アニメ"の中に閉じ込めれば良かったのです(そうすれば新海誠が作る意義が無くなりかねませんが…)。
統一性のない現実と非現実の切り替えが物語の焦点をぼかしています。
・小道具に過ぎない主人公周辺
上述の通り、主要人物の周辺世界があまりにご都合主義的でリアリティがありません。ここでいう"リアリティがない"とは創作物に許される非現実の描写という意味ではなく、説得力が無いという意味です。
例を挙げると、拳銃は偶然手に入りますし、陽菜たちの母親は陽菜と凪を二人暮らしにするためだけに死んだように見えます。無能な警察、偶然バイクで帆高の前に現れる夏美、三年後に一件だけ入っている依頼など、一つ一つは些細でも積み重なると作品の中に没入することが難しくなっていきます。
積み重なったご都合主義が面白い物語を紡ぐ場合もありますが、これには個々の事象が繋がって線を描き、有機的に絡まりあった模様を織りなす緻密な構成が必要です。
しかし、『天気の子』は物語の大筋を組み立てた後に直近の因果関係だけを埋めて物語を作ったかのように、それぞれのご都合がバラバラです。これでは短い直線がただ並んだだけで味わいも驚きもありません。
「帆高は警察に追われて欲しいから拳銃でも拾わせて撃たせるか」「じゃあその前に拳銃が落ちていても自然だと電光掲示板に映しておこう」といった程度の構成に感じられます。
・意図のわからない描写
意図のわからない描写が多かったことも気になります。
例えば、水の膜のようなものが破れ一気に水が降ってくる描写や水でできた魚の描写があります。これらはおそらく気象神社の天井絵の伝承に対応するもので、クライマックスの上空シーンにも反映されています。これらは映像が綺麗なだけで、ストーリー上は何の意味もありません。
また、帆高の家出の理由も描写が中途半端です。帆高の発言で島や家族の息苦しさが挙げられていますが、家族に関わる理由については説明がありませんし、おそらく家出の理由に関係するであろう絆創膏だらけの帆高の顔についても特に何もありません。だったらそもそも描写をする必要がありません。設定上は何かが背景にあるのでしょうが、それが描ききれていません(あえて描かなかったのかもしれませんが得られる結果は変わりません)。中途半端な描写は観客の思考の一部を占拠し続け、作品への没入を阻害します。
帆高が陽菜の部屋でご飯をご馳走になるシーンも尺の割に印象が薄いです。ポテトチップスとインスタントラーメンの宣伝だったのでしょう。
・挿入歌の使い方
挿入歌は手当たり次第に入れただけでくどいように感じました。
「グランドエスケープ」が流れるシーンでは映像と音楽の調和に息を呑みましたが、そこまでのストーリーの積み重ねができていないせいでクライマックスのカタルシスは無く、他の映画の上映前に予告編を見たときの感動を上回ることはありませんでした。
・『君の名は。』の否定
気象神社の神職は雨続きの東京が異常気象ではないと言い切ります。これは、「長い歴史から見れば、人柱が長雨を止めるのは異常なことではなく今までも繰り返されてきたことだ」という主張だと思います。このシーンで私は、伝承に基づいた行動が世界とヒロインを救う『君の名は。』を思い出しました。しかし、『天気の子』において帆高と陽菜は歴史を繰り返さず、雨の東京を選び取ります。そしてその東京には『君の名は。』のキャラクターたちが住んでいるのです。
これは『君の名は。』の否定でしょう。あえて前作同様の構造を提示した後に『君の名は。』ごと世界を切り捨てたのです。悲しい。
・後日談の歯切れの悪さ
帆高と陽菜は、晴れた東京を捨てて陽菜の存在を選択します。このオチはいわゆるメリーバッドエンドであり、帆高と陽菜の二人だけにとってのハッピーエンドです。
このオチは主人公たち以外のバッドエンドを描くことで鮮やかさを増すものであると思います。
しかし、3年後の世界で大人たちはそこそこの日常を送っています。つまり、帆高と陽菜が選んだのは”陽菜が生き残り他の人たちもそこそこで生きていく世界”だったのです。これでは陽菜が帆高と出会わず晴れ女の力を使わなかった世界と同じでしょう。二時間弱も一体何を見せられていたのでしょう。
さて、この結末が伝えたいメッセージとはなんだったのでしょうか。「今の日本は生きにくいけど自分の好きなようにしていてもそこそこに生きていける」でしょうか。あるいは「自分が生きる世界を変えようとしても結局はそんなに変わらないし、現代日本の生活はやっぱりそこそこ苦しい」でしょうか。いずれにしても僕はこの作品からポジティブな、あるいは有意義なメッセージを受け取ることができませんでした。
まとめ
『天気の子』は随所に粗が目立つ期待外れの映画でした。
良かった点もありますが、その全てが今までの新海作品に見られた良さであり、『天気の子』から新たな魅力は感じられませんでした。