31戦目1993年11月27日
一文字違いの幼馴染はいるのです。
その彼とは小学校1年生の頃からの付き合いです。
のちに現れる、その一文字違いの選手の存在は知っては
いましたが、対戦が決まるまではその時だけでなく、
長い目で見て、でも、やるとは思いませんでした。
前戦、中島戦を見て、続かないのではないかなと
思っていました。
挑戦者決定戦で敗けてしまった為、初防衛戦の相手は
中島貴志に決まり、僕は対中島貴志用の練習を
毎日していました。
減量に入り、疲労ピークの試合2週間前に中島貴志の
所属するジムが新団体設立だかで脱退しました。
2週間前になって、「やっぱり前田で」と連盟は云い
ました。
色色嫌でした。
延期、などにはなりません。
そんな時代です。
結果、判定で敗けました。
その試合後辺りから、比較されるようになりました。
連盟側の意図もあったと思います。
構図というか絵面というか、そんなのを作りたかったのでは
ないのかなと思います。
でも、それが納得出来なかったのが嫌だった理由の
1つです。
何故ならば、そこまで自分がそこまでキックボクシングを
引っ張ってきたという自覚は僕にはあるのですが、
それまで何もしていない癖に、後から無断で乗って、
然もそれまでも自分の手柄かのようにしたからという
のもあります。
初戦、判定で僕が敗けて、でも、その前に3月の清水戦、
5月の山崎戦と大きな試合が続いていたので、肩の荷は
降りて、少し楽になったくらいの気持ちでいました。
敗けはしましたが、僕はまだ主役のつもりでいたのです。
でも、過去の手柄まで持ち去られた感が僕の中にあり、
それが嫌だったのですが、彼はそれを満更でもなさそうで、
でも、それが敗者の僻みなのは理解しています。
当時はそれが納得いかなかったのです。
そして、彼の発言に自分の名前を見つけることがあり、
それが嫌だったということもあり、それは敗けた事実が
覆らないからという悔しい気持ちと、でも、それは違うのに
なんでそういうことを口にするのかが分からない疑問から
くる消化できない気持ちが大きな理由の1つです。
シュートボクシング出身という彼は、その頃のその競技の
そういうイメージで自分自身を演じ、そういうキャラクターを
作ろうとしていたのかもしれません。
もしかしたら。
今思うと。
「仲よかったけど、試合は別物で、でも、試合が終わればまた
仲よし」
それは、僕の嫌いな当時の彼が前にいた競技イメージの
それでした。
デビュー当時から親しくしている阿部健一は、そういう
イメージとは違う括りの選手ではありましたが、でも、
競技の中という1つの括りでは彼も同じ括りにされていた
部分はあると思います。
性格的には僕に近いと思いますが。
悪くいうと、そういう仲よしごっこ的なのりが自分は
とても嫌で、そういう一括りの中に自分を置かれることも嫌で、
そして、自分がそれに慣れるのも嫌でした。
僕は僕の、もっとわかりやすいキャラクターだと思って
いるし、自分がこうありたいという願望もあったので、
そこを貫きました。
一般紙も専門誌も、食いつきは予定通りです。
インタビューをしにきてくれるということなんて、
月に一度あるかないか、それが半年に一度、一生に
一度の人もいるだろうし、それすらない人も数多く
いるのが当たり前なのです。
昔も今も、後のない競技者の戯言です。
聞き手が面白がってくれないものを読んだ人が面白がって
くれるはずがないのです。
今も、間違えていないと思います。
面白おかしく応えるのは、取材受け手としたら
当然なのです。
のちに出てくる散散自分が目立つために僕の名前を
使う田舎に引っ込んだ輩が、少し前に何らかの
インタビューに応えているのを見かけました。
気持ち悪いので、名前を記したくもありません。
自分を面白おかしくするために僕の名前を使ったの
でしょう。
他人の名前を使わないと自分を表現出来ない悲しさを、
きっと分かっていないのでしょう。
先に仕掛けて、美味しいところだけ乗っかろうとする、
道着を着た芸人被れの輩が当時よく使っていた
どうしようもない語彙に影響受けちゃったのか、
あわよくば上手に利用しようとする魂胆が見え隠れ
していました。
損はあっても得がないことを、何故やらなければ
ならないのかが分かりません。
喧嘩を売って、買わなければ逃げたとされる当時の流れが
本当に嫌いでした。
自分の名前を検索して引っかからなければ知ることも
なかったのですが、悲しい立場なのだなと理解はします。
でも、同情はすることはないでしょう。
2度とそんな安っぽいインタビューで自分の名前を
使わないで欲しいですが、おそらく使うのでしょう。
その、またの機会があればの話。
そんな機会があればいいですね。
死ぬまで無視しますが。
話を戻します。
当時を知らない人は、想像してください。
如何に僕の頭のネジがずれていたか。
今の選手は知りませんが、中学生の頃から自分の
インタビューのイメージはしてきました。
その前に、キックボクサーの出る専門誌もありません
でしたが。
ああ訊かれたらこう応えよう。
こう訊かれたらああ応えよう。
授業中や休み時間、登下校時に歩きながら考えていました。
どういう言葉を使ってやろう。
どういう受け答えをしたらまた、取材に着てくれるだろうか。
そんなことをよく、考えていました。
そのことはまた別で記しますが、そんなことはプロだから
当たり前なのです。
プロになる前のプロ意識です。
こういう質問が着たらこう応えよう。
こう返されたら、こう返そう。
逆に、自分からこう云おう。
また、訊きに着たいと思わせるそれでないと駄目だと
常に思っていました。
当時のキックボクシングの置かれた状況を
知っている方ならこの当時の僕の考えは正しかったと
理解してくれるはずです。
そして、それが如何に無謀だということも。
それだけでは駄目なのもわかっていました。
一般紙の記者がその記事を読んで、こいつ面白いなと
取材した後に思わせるそれでないと駄目だと常に思っていました。
当時のキックボクシングの置かれた状況を知っている方なら
この当時の僕の考えは正しかったと理解してくれるはずです。
何故なら、如何に盛り上がっていようともメジャースポーツの
それとは違う、格闘技と一括りにされないとわかって
もらえない、そして、その一括りにされたたまたま今、
人気の出かかっている競技、キックボクシングで、
その中の1選手なんて、世間の記憶の点にもならないからです。
ここから先は
これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。