20億人の「書」:無花果とオリーブ(1/8)
《聖典クルアーン》無花果章
「イチジク」と「オリーブ」と聞いて人は何を想うだろうか。世界には、この並びでこの二つの果実の名前を聞くと、即座に「ワッティーニ・ワッザイトゥーン」ですねと了解する人々が、推定ではあるし、やや盛った数字ではあるけれど、20億人近くはいるはずだ。私もそうした人々のうちの一人。店先でやけに居住まいをただした4個入りのイチジクを見ても、トルコ産の乾燥イチジクのパッケージを見ても「ワッティーニ・ワッザイトゥーン」という一節が耳元に聞こえてくる。
これは、「コーラン」と呼ばれる本の中の一節である。アラビア語で降された、イスラームの聖典。アラビア語により忠実に音をなぞれば、「クルアーン」となる。中学でも高校でも世界史の中で紹介されるけれど、「クルアーン」と呼ばれている。預言者ムハンマドを通じて下された、唯一の神アッラーの言葉である。「書」とは言っても、神が書いたのではない。神の預言者ムハンマドが書いたのでもない。あくまでもムハンマドを通じて降ろされたアッラーの言葉である。その言葉が失われるのを危惧した信者たちがムハンマドの死後に「書」としてまとめたのだ。
人間の手によるものだったのかとがっかりすることはない。降されてから、本になるまでの期間がとにかく短い。旧約聖書が800年、新約聖書が300年はかかったとされる中で、西暦632年のムハンマドの歿後30年も経たないうちに、しかも、ムハンマドにアラビア語で降されたそのままが保たれているということになっている書だ。啓示自体により近いという意味で類を見ない書だと言える。
となれば、有難すぎる書である。読めば読むだけ神様に近づけるような気さえしてくる。たとえ意味が分からなくても、朗誦を聴いているだけでも心地よい。心が洗われると、きっと多くの信者たちは言うであろう。
信じている6つのこと
イスラームの信者たちとは、アッラーと、天使、彼の書、彼の預言者、最後の日、神命(神は人間にとって良いことも悪いこともする)を信じる人々のことである。いわゆる「六信」である。これら6つについて、イスラーム教徒たちは無条件に信じるということなのだ。これら6つは、いずれも目に見えない。目に見えないからこそ信じるという行為が引き出されるわけだが、アッラーの書だけは、やや事情が異なる。厳密を期して言えば、信者が信じるべきは、「アッラーの言葉」そのものの方なのであって、印刷物としての本ではない。ただ、本それ自体があたかも信仰の対象のようになっている。
預言者は現に存在したという人があるかもしれないが、たとえば、ムハンマドを預言者として信じるかどうかは、ひとえに信じる側にかかっている。これもまた目に見えない領域の話だ。
イスラーム神学的に言えば、「アッラーの言葉」を「クルアーン」に限定することはできない。クルアーンはすべてを網羅しているのだという主張があったとしても、アッラーご自身は、預言者の封緘後も、語り続けているからだ。もはや、預言者という媒介は存在しないため、言語による啓示は行わないのかもしれない、しかし、それでも、語り続けている。語りは、アッラーの属性の一つで、アッラーは「語り」そのものであると同時に「現に語り、語り続ける者」でもある。
それにもかかわらず、「書物」(アラビア語では「ムスハフ」という)としてのクルアーンは、神の言葉をムハンマドに降された部分のみを切り取り固定化してしまうことになる。イスラーム神学で信仰の対象として引かれるアッラーの書には、クルアーンの外に、『律法(タウラート)』『詩篇(ザブール)』『福音(インジール)も含まれる。「アッラーの書」を信じるというときの「書」は、キターブの複数形「クトゥブ」が用いられるのだ。アッラーの言葉が記されているものはすべからく書とし、それらを何れも信じるというのが信者に求められるべきことだが、実際には、書物としてまとめられ、印刷された『聖典クルアーン』のみが書であるとして疑わない。
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