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土から創られた人間たち:無花果とオリーブ(2/8)加筆版

シャリーアとは

《アッラーは土からあなたがたを創り…》(創造者章11節)。つまり「人間は土くれの存在にすぎない」。衝撃だった。私がまだ20代前半で、今よりまだ天井知らずに思い上がっていて、だから人間関係にも見放されつつあったときに、読み止しのまま広げてあった論文に引用されていたのがこのクルアーンの一節であった。人間は土からできている、要は取るに足らない存在だということ。
「お前そんなに偉いんか?」
この一節のお陰で、何かがこみあげてきて、思いあがっていた胸のつかえをすっと降ろしてくれたようで、すごく楽になったのを覚えている。

その後、私は、国境などとは無縁の滑らかな空間としてのイスラーム共同体の広がりとそれを統べる法の理念的な在り方に、人類全体が共有できるはずの「根本規範」(ハンス・ケルゼン)のアイディアを重ね合わせ、理想の法秩序の姿をイスラーム法に見出せるのではないかと胸を躍らせた。

何しろ、そこには不易不動の法の根拠がある。至高なるアッラーの御言葉たる《聖典クルアーン》と、その御言葉を受け取り人々に伝えたアッラーの御使いムハンマド(彼の上にアッラーの祈りと平安あれ)の言行(スンナ)の2つである。この二つを絶対的な法の根拠として展開されるのがイスラーム法(シャリーア)だ。淵源としてつまり、「神」の書を絶対的な法の根拠として、そして同時にその書を受け取ったムハンマドの言行もまた根拠とする法 が「シャリーア」だ。
ムハンマドの言行は上位法たるクルアーンを逸脱することはないので、イスラーム法は、「アッラーを立法者とする法」と言いうるが、その法の現実的な適用は、クルアーンとスンナを究極的な根拠としながら、具体的な法規を発見していくイスラーム法学(フィクフ)が行う。まだ何も知らない私は、人の間はもちろん、国家間の関係もこの法に、委ねることができたのであれば、法学や法学研究の未来が開けると直感したのだった。二十歳に遅れること数年の私の研究者としての原点だ。

イジュティハード

イスラーム法研究における私の中心的な関心は、「イジュティハード」にあった。「立法者たるアッラーの意図に適った法を発見する学的努力」のことである。1964年にオリエンタリスト、ジョセフ・シャハト(彼は、エドワード・サイードが主著『オリエンタリズム』の中で指摘した、オリエント理解をステレオタイプにはめ込み支配の手段にさえした「オリエンタリスト」にあたる)が、イスラーム社会は開始後3-4世紀で、イジュティハードを行われなくなってしまったと指摘した。「イジュティハードの門の閉鎖」という事態である。この学説は停滞するムスリム世界の現実とも相俟って研究者たちの間を席巻した。
しかし、その20年後、パレスチナ人イスラーム法学者、現在はコロンビア大教授のワーイル・ハッラークによって「門は閉鎖していなかった」という衝撃的な論文が発表された。イジュティハードの担い手たる大ムジュタヒドが1世紀に1人は排出されていたことを、彼らの業績も踏まえつつ論証したのである。世界的通説に対する痛快なまでの論駁だ。

そして、その後、その否定論者が論文を発表するごとに直接本人から送っていただけるという幸運に恵まれ、それらの訳出を行った。また、シリアのアレッポへ6年弱の在外研究に出かけ、イスラーム法とイスラーム神学とアラビア語とを現地を代表する先生方から直接学んだ。そうして、彼の論文発表から20年たって「閉鎖があったからこそ開いた門があり、それがイスラーム基礎法学の方法論的進化になった」という論文を2004年に書き上げ翌年学位を取得した。
私は、その後も、イスラーム法が信者の社会の中からさえも乖離してしまうのは、このイジュティハードの停滞あるいは放棄といった状況があるからに他ならない。と、長く信じて疑わなかった。が、果たしてそれだけであろうか。

従うべきは

見えないものを信じるのがイスラームに限らず信仰だとするならば、そして、見えないものを信じる人々の法の源泉も本来は見えてはいけないのだが、預言者がいて、預言者によって伝えられた書がある。しかし、イジュティハードを放棄した法体系にあっては、先例の踏襲する「タクリード」的な傾向が顕著になり、そうなると、どうしても、権威主義が台頭してきてしまう。アッラーの法による支配というより人の伝統的法解釈による支配である。
さらに、イスラームにおけるアッラーの位置に、具体的な人物でも偶像でも、あるいは、おカネでも権力でも置いてみればよい。なにが起こるか、火を見るより明らかではないだろうか。見えないものより見えるものに人々は吸い寄せられ簡単に神としてしまう。モーゼの不在中にアロンがいながら、人々は偶像を作ったのである。

アッラーはずっと生き続ける、存在し続ける、見続ける、聴き続ける、語り続ける、知り続ける…けれども、地上の権力、権力者ときたらどうだ。それこそ比べ物にならないのに、人々は独裁者を歓迎しさえしていないか。

シャリーアも同じことになりかねない。語り続けているアッラーをよそに、ムハンマドを通じて下された言葉を文字化した「書」のみを法源とする。それでは、限界があるのは当然だ。万有の主の言葉を聞いた結果の法になっていないから。そうであるならば、クルアーンの神聖性を認めず、ムハンマドを預言者とも位置付けない人々に、通じる道理がないしその胸に響くわけもない。このままでは、独裁者のあるいは独裁体制の支配の道具にはなり果てはしても、世界を救う法になどになれるはずがない。こんな当たり前のことに、大学の職も退き、あれから40年を経て、ようやく気付けたのである。

聖典クルアーン「無花果章」から始めてみる

聖典クルアーンの第1章つまり、「開端章」の第2節に「アッラー」が同格で「万有の主」と言い換えられている。「ムスリムの主ではない。万有の主なのだ」。今は亡き、イスラーム法のわが師の口癖だ。現存する世界最古の都市の一つの旧市街にほど近い彼のオフィスの裏手には迫害から逃れて様々宗派が混在するキリスト教地区が隣接していて、月曜午後の勉強会の時間にも近くの教会の鐘の音が響いていた。14世紀に活躍したグラナダのイスラーム学者シャーティビーの『アルムワーファカート(イスラーム法における合意諸事項)』という古典の読解の手ほどきを受けていた。イスラームの枠を超えて全共同体が共有できる根本原則にも言及した学者の大著である。

そのときは、しかしそれでも「シャリーア」の話、イスラーム教徒の主を立法者とする法の話だった。あれから、20余年、私の目の前に途轍もない課題が降りてきた。「万有の主」を立法者とするような法の構想。地球環境が厳しさを増し、そこここで火山活動が活発化し、大地震も頻発。国益と領土をめぐる争いは、人道危機を伴う無差別攻撃による戦争にまで発展している。イスラームを取り巻く世界中の人々の良好な関係の構築には不可欠かつ喫緊の課題である。

アッラーがムハンマドに降した言葉には、もちろん、彼の状況、時代、人々に則したものと、それに比べれば、普遍的なものとがあるように思う。万有の主に相応しいと思われるようなメッセージをムハンマドに、あるいはアラビア語話者たちにわかりやすく伝えるのである。それらはあくまでも相対的な区別なので、相当に読み手である私の主観に左右されるのではあるが、少なくとも「人間」について降したメッセージには、そうした普遍的な要素が少なからず含まれているのではないかと思われる。その一つとして、「ワッティーニ・ワッザイトゥーン」(イチジクにかけて、オリーブにかけて)で始まる『聖典クルアーン』の「無花果章」をとりあげてみたい。

2023年11月15日加筆

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