多様性、そう、愛すべき①:《クルアーン》「夜章」をめぐって(前段)
{إن سعيكم لشتى}
「インナ・サアヤクム・ラ・シャッター」。クルアーン夜章の冒頭に掲げられた3つの事象、すなわち「闇に覆われた夜」、「光に照らされた朝」、「男と女を創ったもの」にかけてアッラーが誓った内容、すなわちこのカサム(宣誓)の応答が、これである。
「インナ」は強調の詞、強調の中身は「ラ」以降に示される。「サアヤクム」の「クム」は「あなたがたの」を示す人称代名詞の接続形、「シャッター」は、「様々な」という形容詞「シャティート」の複数形である。
まず、この応答部の日本語の既存訳を検討しておこう。「シャッター」については、「さまざま」「様々」「多様」が用いられているが、「サアヤクム」の受け止めは、それこそ様々である。
2人称の男性複数の人称代名詞(「クム」)を、「おまえたち」とするか、「あなたがた」とするか、「汝ら」とするかは、それぞれの訳出の全体のトーンに負うところが大きいので、ここでは触れないことにするが、「サアユ」の訳にはニュアンスに違いがある。
中田訳では「奔走」に「(努力)」とカッコ書きを添えている。協会訳も「努力」の語をとるが、日本語訳を読む限り、多様なのは、努力そのものではなく、「その結末」になっている。
井筒訳は、「志すところ」とした。「志すところ」には、「努力を行う前の状態が含まれうる。「志すところ」がなければ、「努力」はない。同じ言葉の訳語というのも厳しいかもしれない。「奔走」について言えば、「努力」より限定的である。「サアユ」とはいったい何なのか。因みに、サアユの動詞は、سعى であるが、自動詞として、「歩く、向かう、赴く、試みる、努力する、奔走する」とされ、他動詞としては「追い求める、追求する」、さらに特定の前置詞を伴って「あこがれる、熱望する、切望する」「追い求める、追求する、尽力する、努力する、追い求める、処置をとる、対策を講じる」さらに、「動く、移動する、向かう、進む」の自動詞の意味も「全力を尽くす」という意味で慣用句を構成することもある(訳語は『アラジン』による)。そうであるとするならば「志すところ」も「努力」も「奔走」も動詞の意味から外れてはいない。
アラビア語注釈の中の「サアユ」は?
サーブーニーの注釈でも、アッラーズィーの注釈でも、サアユの語自体が「アアマール」(「アマル」(行為、行動、動作、仕事、労働、勤務、勤労、職、職業、働き、作用)の複数形)に置き換えられている。
アッラーズィーはこの聖句の注釈に曰く。
ここでは、「サアユ」という言葉を、より一般的しかし具体的と思われる言葉「アアマール」に置き換え、そしてそれが異なるのは、それらの行為の見返りが異なることに結びつけている。翻訳においては「サアユ」という言葉で降されている以上、その語から訳語を作るのが定石ではあるが、アラビア語の注釈書を参照すると、別のアラビア語に言い換えるとどうなるのかがわかる。つまり、注釈者の理解によるものではあるのだけれど、この場合で言えば、「サアユ」という言葉の意味の広がりを知ることができるのである。
「サアユ」は、「アアマール」(アマルの複数)としてその意味を理解することができ、「サアユ」が様々というのも、「サアユ」それ自体ではなく、サアユに対する褒美なり報いなりが「シャッター」だという意味だと解説している。協会訳が「結末」の語を用いていたが、そういわれると、そこには最後の日の審判の含みを感じることもできる。ただ、それが、本章が言うように、楽園なのか、火獄なのかという二つだとするのなら、「様々」には違和感が生じる。
そうであるのなら、アッラーズィーは、「シャッター」の意味をどうとらえているのであろうか。彼は、「シャッター」を「ムフタリフ」の語に置き換えている。この語は、「様々な」という意味も有するが、「異なる、違った」あるいは、「反対の、逆の、対立した」の意味も有する。彼は、「様々な」のではなく、「異なる」し、場合によっては「真逆の」もありうるという「ムフタリフ」の意味で、「シャッター」の語義を捉えていることになる。シャッターの理解がシャッターである。
シャッターとは
アッラーズィーは、「シャッタート」(シャッターの単数形シャティートの動詞シャッタのシャッタを反復して行う者に当たる単語を引き合いに出し、次のように説明する。
「シャッタート」とは、互いに距離があって、かけ離れているということ。あなたがたの行為は、実に互いにかけ離れていると言っているようなもの。なぜならば、その一部は迷誤であり、またその一部は導きだからであり、一部は楽園が約束されるものだが、一部は火獄が待ち受けるものだからである。
そして、同旨の聖句として、《火獄の仲間たちと楽園の仲間たちは等しくない》(集合章20)、《信じていた者と邪悪で罪深い者とは一緒でない》(アッサジダ章18節)。を挙げている。つまり、アッラーズィーは、この応答部を、「実に、あなたがたの行為は、真逆とも言えるほど、その見返りが異なる」と読んでいるように考えられる。そうであるならば、「努力はさまざまである」という訳が想起させる意味とは微妙にずれているとはいえないであろうか。「天と地ほどの違いがある」といえば、あくまでも2つの者の比較。それに対して、「様々である」といえば、そこにはたくさんの対象の存在が前提となっている。とはいえ、「サアユ」の語には、複数形は存在しない。可算的な名詞ではない。しかし、シャッターは、シャティートの複数形であり、サアユにクム(あなたがたの)の代名詞がついていることからも、サアユは、意味的には複数と見ることができる。あなたがた一人ひとりにサアユがあり、それが、互いに異なるとは読めないであろうか。個人的には、「人生の歩みは、人それぞれ」であるというあたりに落としどころを探りたい。
「あなたがたのサアユは実にシャッター」とは
ところで、サーブーニーは、この応答部をこう解説していた(なお、彼は、「アアマール」ではなく単数形の「アマル」を用いている)。
つまり、この応答部の意味は、これに続く聖句を読むことによって明らかにされるということである。「シャッターなサアユクム」とはいったい何なのか、さらに検証を続けて行こう。
後段では、「アルホスナー」と、それを真実だとする者にとって獲得しやすくなる「アルユスラー」と、それを虚偽だとする者にとって獲得がしやすくなる「アルウスラー」という3つの言葉にフォーカスするところから始めて人間の生き様の多様性とは何なのかその内実を探っていく。
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