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シャリーアは神の法か:無花果とオリーブ(第7回/全8回)

「信じて善行をなす」というのは、クルアーンの中でたびたび出てくる信者の求められるべき姿である。「無花果章」第6節の「いちばん低いもの」の例外として「イッラー」の後に掲げられているのも、まずこの二つである。つまり、「信じて」と「善行をなす」こと。「信仰(イーマーン)」については、第1回ですでに説明した。ここでは、「善行」の中身についてみておこう。

五行の含意

善行は、2つの柱からなると言ってよい。一つは、イバーダつまり、アッラーの僕としての務めである。「六信」に対して「五行」と呼ばれるものだ。信仰宣明、礼拝、喜捨、斎戒、巡礼の5つである。

私はかねてより、これらの5つが、統治者と被統治者を結ぶ5つの義務として現実の社会にモデルとして提示できるのではないかと考えてきた。実際、アッラーとの関係の中で、アッラーの下僕としての行為は、最後の審判でのポイントを稼ぐと同時に、現世自体をよりよくする、現世の福利を増進する効果を期待できるのだ。
信仰宣明は、価値観共有を明白なものとし、礼拝は、従うべきものを見失わないための行為であると同時に集団でそれを行えば、信者同士の連帯感と、神の前での平等を社会のモデルとして確認できる。
喜捨では、富の自律的な循環が強く促され、格差の是正が期待できる。
斎戒では、一人ひとりが自分の生を確認し、肯定し、他者への思いやりもまた発露する。
さらに礼拝前の実の浄め(ウドゥー)は、清潔さを社会全体に広める契機にもなる。
巡礼は、イスラームの生誕の地に信仰への再覚醒を図る、グローバルレベルでの信者同士の交流の機会である。これらは、来世での報奨より以前に、イバーダの効果が信者自身にまで帰ってくることを意味する。もしも社会全体でこの務めが十分に果たされたのであれば、途切れの無い報奨がこの世においてさえもたらされうるというものだ。

礼拝は「議会」に当たり、喜捨は「税金」に当たり、「斎戒」は、共同体の共通の困難克服の努力に当たり、「巡礼」は、国境をまたいだ交流と支援に当たる。「政治理論とは、神学理論の世俗化の産物である」という言葉があるが、神学の側から、政治を眺めることによって、その政治がうまくいっていないとするならば、とりあえず何が足りないのかを見出すことができる。そんなメリットも、イスラームの信仰とその実践には含まれている。

イフサーンのレベル

この五行の柱に並ぶもう一つが、「アッラーは、あなたのことをすべて見ている、たとえあなたに見えなくても」というイスラーム倫理の基本である。それも含めての「善行」であるが、清濁併せのみ、善玉にも悪玉にもなりえ、天使的にも悪魔的にもなるのが人間である。いや、人間などと一般論として規定するのはおこがましいというものだ。私のことだ。

自分を振り返れば分かることだが、一人ひとりの善行からの人類全体の福利の実現を性急に願ってみたところで、その実現の可能性は極めて低いのかもしれない。しかし、個人のレベルであれば、少し事情は違う。直立二足歩行を常としている人間には、その代償として、腰痛、痔、胃下垂、ヘルニアの危険が隣り合わせている。伏臥礼の動作は、立ちっぱなしの脊椎を横にし、胃を腸より上にあげてくれる。それを日に5回行うのと行なわないとでは、それだけでも健康状態に相当な影響があるのではないかと個人的には感じる。つまり、イバーダの効用は、現世で生きている間に実感しうるものでもあるのだ。

アッラーを立法者とする法の正体

この聖句を読んで、報奨は来世でのことと解したのは、人間の側である。来世では、もちろん、現世では想像もつかない大きなそして永遠の報奨があることと信じる。しかし、「現世でもよく、来世でもよい」がイスラームの教えなのであるから、何も、現世を闇、来世を光という具合に、あたかもアッラーがそう命じているかのように、何でもかんでも来世に託す必要はない。アッラーは、ご自身を「諸天と大地の光」だとしている。光を闇に変えているのは、アッラーではない、アッラーの光を俗世の闇で遮断しようとする外ならぬ人間たちなのだ。

とはいえ、である。アッラーは、クルアーンでわれらと言っていたその場所にとどまってはいない。いや、そもそも、彼の場所などあろうはずはない。存在をさかのぼっていけば「ゼロポイント」に行き当たるのかもしれない。存在のゼロポイントを観照できたとしても、私の周りにあるのは、ゼロポイントから絶えず創造されてくる生成の波動である。その波に常時洗われながら果たして、アッラーをあるいはゼロポイントを把捉することができるのか。波に呑まれて溺れてしまうのが関の山ではないのか。クルアーンを読めば、アッラーはそこにいる。だけれども、人間に捉えられるのは、彼の徴しなのであって彼自身ではない。そうでなければ神とは言えない。

そうなると、「アッラーを立法者とする法」などという物言いは、人間の側からする傲慢の産物でしかないということになる。人間が自分たちの都合に合わせてアッラーに成り代わって拵えたものにすぎないのである。アッラーもそしてムハンマドも、クルアーンを書いて遺せと言う命令は出していない。そういえば、歴代の大法学者たちも、時の為政者に法規の集成を作るよう依頼されても、とにかく、最初は断っていた。「五行」にしてもそれをあのような形で体系立てたのは人間である。立法者、即ちアッラーの意図だと、解釈者たちは言うだろうけれど、本当にアッラーの意図だと言い切れるのか。

ムスリムの務め

創造された人間がどこに戻されるのか一つとっても、解釈は多岐にわたっていた。また「もっとも美しい姿」という言い方自体が見直されてもよいような状況もあった。それらはいずれも、解釈者の意図の産物であって、それがそのままアッラーの意図であるわけがない。しかも、「アッラー以外に神はなし」的な言語でもって、唯一神アッラーという装置を人間が振り回せば、間違いなく排除される人々を作る。不信心者と言って排除し、場合によっては、略奪や攻撃、征服の対象にさえしてしまうことであろう。イスラームをモデルに、最近の専制主義的な政治体制を分析すれば、かなりの精度の結果が得られるはずだ。しかし、それは、アッラーのことをムスリムの主としてしかとらえない結果なのである。ロシアが、中国が、アメリカが、自らの国家と国民を「神」としたときには、預言者に当たる人物がいて、天使的な役回りを演じる人々なり、考えがあって、来世つまり、地獄に変わるような、厳しい懲罰、あるいは、天国に変わるような底なしの報奨が用意されていて、神の言葉、つまり国家あるいは国民あるいは独裁者の命令は絶対であり、神はいいことも悪いこともするそしてそれを天命として受け入れる。イスラームのこうした仕掛けを舞台装置として設えれば、独裁者誕生の舞台は揃うことになる。

独裁者のやること、この世に天国を造ること。そのためならこの世に地獄を作ることにも躊躇しない。そのためであれば手段を選ばない。しかし、たとえ一部に熱狂的な支持者がいたとしても、彼は、かれらにとっての神でしかない。万有の主の足元になどとても及ばないあまりに小さな存在だ。だからこそ、万有の主たるものの存在が、そういった小さいのにあたかも大きなものであるかのような顔をしているあれやこれやを相対化するために、意識され続けている必要がある。

万有の主たるアッラーを、人間にとっても万有の主として位置づけられるかどうかは、まさにその主に帰依する一人ひとりにかかっているのだ。

加筆修正版

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