ぜんそく公害、対人恐怖、アレルギーに苦しんだ少年時代
「自分なんて生きててもしかたがない」
「誰も自分のことなんか分かってくれない」
「どうせ自分の人生なんてそんなに長くはない」
そんなことばかり毎日考えながら過ごしていた、少年時代。
場所は、神戸市兵庫区の工場地帯。
当時のまちは、ものづくりの中小の工場が立ち並び、
小学校の通学路はいつも働く大人で騒がしく、工場の焼却炉の熱気を感じ、
ガラス瓶や空き缶をつぶす破砕音が鳴り響く場所を耳を塞ぎながら横切り、
溶接の火花が散る様子を不思議そうに眺めながら通学していた記憶がある。
工場からの煙や異臭が立ち込める都会のど真ん中で育った私は、
3歳のときに神戸市から「気管支喘息」の公害認定を受け、
その後、ほぼ毎日起こるぜんそくの発作の治療のため、
自宅から3kmほど離れた病院に2日に一回程度の頻度で
母親の自転車の後ろに乗せられ通い続けた。
また、毎年4回、季節の変わり目に起こる大きな発作には
息ができないほど苦しめられ、
ナイフで刺されたかのように肺と心臓を傷めつけられ、
救急車で運ばれたことや入院をしたことも何度もあった。
数年に一度、私と同じように「気管支喘息」の公害を患う人たちの集まりがあったが、そこで「あの人も若くして喘息で亡くなった」という話を聞くたびに、自分もそう長くは生きられないのだろうと、幼心ながら思っていた。
小学校低学年時には、病弱すぎる自分の身体を不甲斐なく思い涙し、
「なんで自分だけこんな苦しい目に会わなければならないのか」
と、一人布団の中ですすり泣きした日は数えられないほどあった。
そのような中での小学校生活。
当時の私は人見知りが激しく、幼馴染のジュン君が話かけてくれなければ、
学校では一言も発することができない子どもであった。
「そういや、一週間学校に通っているけど、学校で一言も発してなかった」
なんていうことはざらにあった。
また、「卵アレルギー」の体質で、卵を食べると全身に蕁麻疹が出て、
息苦しくなってしまう症状を持ち合わせていることが劣等感でしかなく、
先生からもクラスメートからも不思議そうに、時にからかい交じりに
声をかけられるのが嫌でしかたがなかった。
しかし、その後、ある人たちとの出会いによって、変化は突然訪れる。
少年期、劣等感の塊でしかなかった私が、その後、
どのような人たちと出会ってどのような変化があったのか、そして、
人前に出ることも、リーダーとして振る舞うことも苦痛でなくなり、
自ら積極的に様々な人との出会いを求めて行動するようになったのか、
どのように向上心をもち、自らアカデミックに学ぶようになったのか、
なぜ人の嫌がることを率先して行うようになったのか、
なぜマイノリティに優しい社会を目指すようになったのか、
次回以降で語っていきたい。