No.1 拝啓、透明な地獄の君へ ―鏡征爾『雪の名前はカレンシリーズ』―
第1回の読書レビューは、鏡征爾先生の『雪の名前はカレンシリーズ』について。
我らがゼロ年代の申し子、鏡先生のおよそ十年ぶりとなる新作でございます。
これから読まれる方々のために、今回は可能な限りネタバレを廃して書かせていただこうと思います。
ただ、まず前もってこれだけは書かせていただこうかな、というのが一つあります。
この作品は百人が読んで、百人全員が両手を上げて喝采する作品ではないと思います。ぶっちゃけた話をすると、その中の十人が心を撃ち抜かれ、さらにその中の一人の世界が変わってしまいかねない類の作品です。
もし私の年齢が今より十歳も若ければ、私は確実にこの作品から(いささかクリティカルな)影響を受けていた可能性が高いです。私の文章スタイルはそれまで労して積み上げてきたものとはかなり変わってしまっていたと思われます。
他者のそれまでの獲得形質を容易に変質させかねないほどのテキストというのは、ある人にとっては福音になり得ますが、ある人にとっては猛毒になりかねません。少なくとも私にとって『雪の名前はカレンシリーズ』はそれほどまでに濃度の高い小説でした。
ですので正直、この作品について私がどこまで書き切れるのか、あまり自信がありません。しかし、仮にも私はゼロ年代に小説の多くを教えられ、作家の端くれになった人間です。私はきっといつかあの時代と向き合う必要がある(それを誓いたいが為の『ゼロ距離射劇』という表題なわけで)。ならば、居住まいを正し、出来るだけ誠実に書かせていただこうと思います。
が、その前に。
「そもそもゼロ年代とは何か」
この作品について何かを語ろうとすると、よりにもよってこの厄介すぎる命題が我々の前に立ちはだかります。
これに関しては様々な見解があり、人によって異なる解釈があり、そしてたぶん、そのすべてが正解で、人によってはそのすべてが不正解だったりするのでしょう。
私にとっての『ゼロ年代』は、どちらかといえば憂鬱な時代でした。
思春期にありがちなことですが、自分と他人、或いは自分と世界の間の軋轢に、相当苦しまされた記憶があります。(その殆どは、自分自身の心に端を発する問題でしたが)
同じく鏡征爾氏の著作『少女ドグマ』にこんな記述があります。
「どうかこの話を聞いてほしいという思いと、お前らなんかにわかってたまるかという殺意が交錯してる。
だけどそれは、どれほど一人で悩みを抱えたところで、結果的に個人の記憶以上のものとなる。悲しくて、やさしくて、美しくて、残酷で、焼け付くような心の叫びが、虐殺のミサイルの雨となって世界を壊滅させる。」
まさにこのテキストが、ゼロ年代そのものを象徴しているのではないか、個人的には思うのです。
あの頃の私たちの周囲には、まるで空気のように慢性的な絶望がありました。
「自分には幸せになる資格が無い」という呪いのような確信。
それゆえに「容易にハッピーになれる貴様らごときにこの絶望が分かるはずがない」という憤り。
その一方で、誰かに(或いは何かに)その呪いを「解いて欲しい」という密かな願い。
その相克が、ゼロ年代に生み出された小説群の本質だったのではないか、と今振り返って思わけです。
「自分には幸せになる資格が無い」という感覚は、わからない人にはとことんわからないし、わかる人には物凄く刺さる感覚ではないでしょうか。
他人から排撃され、自分の口で何かを語ることに恐怖を覚え、やがて自信がずぶずぶと腐肉のように溶けていって、何ならいっそのこと自分の身体ごと溶けてこの世界から消え去ってしまえ、という破滅的な願望。
先天的、あるいは漸進的に「僕ら」が患ってきた、呪いそのもの。
言うなれば一種のアパシーであり、自己憐憫でもあります。
ただ、その反面、浅ましいとも思える願望を心の片隅で抱くのです。
このぐちゃぐちゃでなし崩しでどうしようもないゴミ屑みたいな自分を、美しく清潔な何かで救済して欲しい。(或いは、ぶっ壊して欲しい)
そしてその存在は、「僕ら」とは正反対の存在でなければならない。正反対の方向に、「同じ深度」でなければならない。
大抵の場合、それは美しいヒロインという形を取って物語に登場します。それは「僕ら」が抱く浅ましい妄想であり、同時に切実な願いでもあります。
そして、その願いの殆どは叶いません。
美しいものの殆どは「僕ら」の抱える呪いに巻き込まれ、汚され、「虐殺のミサイル」の前に消えてしまいます。その消失の手触りは現実よりもずっとずっとリアルで、トラウマになるほどに生々しい。
だからこそ、あの頃の「僕ら」はその物語に痛々しいほどに鮮烈なカタルシスを覚えたのです。
終わり方が重要なのではなく、たとえそれがどのような形であれ、その「呪い」を終わらせてくれたことが重要だったのです。たとえそれが破滅的なものであれ、福音的なものであれ。
「僕ら」の絶望と妄想を物語によって殺すことで、僕らをこの現実世界に繋ぎ止めてくれたもの、それが私にとっての『ゼロ年代作品』でした。
そのような作用というのは、本来であれば文学的な領域の命題として取り扱われがちです。しかし、それをライトノベル(或いはそれに類する媒体)の手法で語ったことも、ゼロ年代作品の共通の特徴だった、と私は捉えています。(思えば、きっとその流れは九〇年代の『新世紀エヴァンゲリオン』から始まっていたのでしょう)
鏡征爾先生の新作『雪の名前はカレンシリーズ』は、まさにそんなゼロ年代からの『最後のシ者』の如き作品でした。
舞台となるオリガ戦没記念都市は「災厄と祝祭を連想させる不思議な街」です。(その正体については、是非、ご自分の目で確かめていただきたいです)
災厄と祝祭。それはまさにかつての我々が過ごしたゼロ年代そのものです。空気のように周囲に満ちる無力感と、それでも尊いものを求める祈り。冒頭から私はそのメタファーを痛々しいほどに感じました。
物語の主人公である十四歳の「僕:四季オリガミ」は『カオナシ』という役割を与えられています。曰く「冬時間から襲来する転生生物」を「迎撃する」「人工天使」たちの整備係。
匿名的な誰か。誰でもいい誰か。誰でもいい「僕ら」。それ故の「顔無し」です。
そして彼は(これまたあの頃の「僕ら」と同じように)ある種の「呪い」のようなものを背負っています。そのディティールについては作品の根幹に関わる部分もありますので割愛しますが、言うなればそれは僕らが青春時代に犯した過ちのメタファーであり、罪のメタファーです。
そんな「僕」は、まるで約束ごとのようにひとりの少女に出逢います。それがこの作品の表題に書かれる少女、赤朽葉カレン。
言うまでも無く美少女です。
語弊を覚悟で言えば、「僕ら」の浅ましい願望そのものがヴィジュアルをもって顕現したものです。
美しく、最強で、儚い、十四歳の少女。
当然、「僕」は彼女に「恋」をします。(作中ではその単語がまるで意図的にすら思えるほど忌避されていたし、私自身もその単語をこの場で易々と使うことは本意では無いけれど、便宜上、そう呼称させてもらいます)
赤朽葉カレンは自分の「ココロ」を代償にして「転生生物(※これも便宜的に呼ばせてもらいますが、異世界から襲来する怪物のようなもの)」と戦う「人工天使」です。しかもただの人工天使ではありません。数多の転生生物を屠ってきた、部隊のエースたる存在です。
人間では、ない。
故に、人間の心が分からない。
だからこそ、カレンは「僕」に出会い頭に言うのです。
「私と付き合ってくれますか」
初恋が人間らしい感情、と認識しているカレンは「僕」にそう申し出ることで、人間を理解しようとします(もう一つの狙いもあったわけですが、それは実際に読んで確かめてください)。
ボーイ・ミーツ・ガール。そう、およそ青春について語るすべての物語はボーイ・ミーツ・ガールです。
「僕」は彼女に選ばれ、彼女と共に戦うことになります。
最底辺の匿名的存在であった「僕」の生活は、そこから大きく変わっていきます。最強の美少女のパートナーとなったことで、これまで路傍の石ころを見るかのような視線しか浴びてこなかった「僕」の世界が、劇的に変わっていきます。
羨望、尊敬、嫉妬。それはきっと、あの頃の「僕ら」が浴びたいと思っていた(これも語弊を覚悟で言いますが)浅ましい願望の実現です。新たな王、世界の救世主、民衆の喝采。
ーーそして、ゼロ年代作品の多くがそうであるように、まるで宿命づけられていたかのように、破滅します。
ですが、本当の物語はそこから始まるのです。
美しいものを破壊し、世界から罵られ、すべてを失った先の場所。
鏡先生のかつての言葉を借りるならば、それはまさに「透明な地獄」。
その物語の最後で、僕が何を選んだのか。
「僕ら」の「呪い」を、「僕」がどのようにして終わらせたのか。
ーー世界の謎が明かされる物語としてのダイナミズムと、共感を激しく揺さぶる苛烈なカタルシスは、是非、ご自身の目で確かめていただきたいです。
さて。
私は書籍版とKindle版を両方買いまして、この一ヶ月、暇さえあればこの作品を読み返しておりましたが、何度読んでも「えげつない」作品です。まるで遺書のような莫大な熱量が込められています。
私個人のお話ですが、私の文筆人生はゼロ年代から始まり、ゼロ年代に一度終わりを迎え、それが焼け野原になったアフターゼロ年代に再び始まりました。
私はこの現代で小説を書きながら「あの時代は終わって、もう何も無くなっちまったな」と空しい気分で、乾いた笑いと共に空を見上げていました。
だからこそ、私はこの『雪の名前はカレンシリーズ』がこうして世に生まれたことに、まるで旧友に再会できたかのような嬉しさを覚えました。
しかもその旧友は未だにあの頃の不敵な笑みで、まるで世界の終わりを一身に背負ったラスボスのように私の前に立ちはだかるのです。
そして、『死に損ないの僕ら』を「まだ死んでねーぞ」と挑発するのです。
この場所の私たちがどれだけ年を取っても、十代の「僕たち」は今でもあの透明な地獄にいる。
「僕ら」は、未だにオリガ戦没記念都市に立ち尽くしている。
だから、私は敢えてこの作品を『青春小説』と呼びたいのです。
あのゼロ年代の誇り高き「死に損ない」たちへ送る、純度一〇〇にして純度ゼロの青春小説なのだ、と。