『我何処へ行かん。・・・いざや歩み行かな。』
夜勤休みの寂しい秋の夜に、家から徒歩30分のところにある墓地近くの林道を歩く。鬱蒼と茂る叢をかき分けて、わずかに辿ることのできる細い道を進んでいく。行き先は晴れなら高台で星が望むことができる三昧場の地蔵堂だ。
行き先が決まっているのにあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしたい放題の道草をするかなり無茶くちゃな足任せだった。昔、萩原朔太郎がエッセイ『秋と漫歩』のなかで『「散歩」という字を使っているが、私の場合のは少しこの言葉に適合しない。いわんや近頃流行のハイキングなんかという颯爽たる風情の歩き様をするのではない。多くの場合、私は行く先も目的もなく方角もなく、失神者のようにウロウロと歩き回っているのである。そこで漫歩というのが一番適している。』と書いていたのを読んだことがあった。私の散歩も目的地こそ定まっているものの、失神者のようにウロウロと歩き回っているから漫歩と言って差し支えないだろうと思う。
散歩(或いは漫歩)は迷わねば面白みがない。Googleマップを見ながらコースを定めて周回するのは散歩した甲斐がなくて寂しい。できるならわざと狭い路地に迷いこんで、見知らぬ街を旅しているような錯覚に陥ちたい。そのためには酒に酔ってなければならない。水割りのウイスキーが程よく体を温めて身体中を巡り始める頃、きまって陽気になっている。平衡感覚を司る三半規管や脳幹や小脳が馬鹿になっているので道が道でなくなり、真っ直ぐな道が曲り道になる。種田山頭火の「真っ直ぐな道でさみしい」も畢竟、種田山頭火が更に酔っ払いであったならば生まれなかったかもしれない。
こんなことを考えながら台風迫る嵐の夜に一人の酔っ払いが誰もいない坂道をふらふらふらふらと登っていった。何処にも電灯がないので、暗闇の中をとぼとぼと歩いていくのだが、足元に気をつけてないと踏み外しそうになる。滑りのある苔のはえた石ころや、突如現れる蜘蛛の巣や、巨大な水たまりが至る所にあるので靴は泥まみれ、服はボロきれになってしまう。夏の草木の匂いは気だるさや眠気を凌駕するほどの青臭いので嫌いなのだが、秋になると金木犀の甘い香りが風に乗ってやってくるようになって清々しい。秋は散歩に最も適した季節だ。
ところが、林道が切れ、開けた野原手前に差し掛かったところで、金木犀のよい香りが急にかき消されてしまった。濡れた土の柔らかさを靴裏ごしに味わって踏みしめ踏みしめ、前進していくと、どういうわけかにわかに「魚が焦げた匂い」がした。
みると掘立て小屋があった。幾度も通ったことのある景色をすっかり覚えこんでいたはずの道だ。こんなところに家などなかったはずだ。不審に思って辺りを見回すとすぐ前方の草むらに自転車が投げ捨てられていた。薄いピンク色と水色の金属塗装がサビ切ったサドルを際立たせている。もっと遠くをみやってみると、草原中央に空き缶から手製で拵えた簡易コンロがあった。何者かが魚を焼いていたようだ。もうすでに何杯か飲んだ後で陽気になっていたので、話しかけようと意気込んで家主を探した。ところがふらついている酔っ払いを不審に思って、どこかに雲隠れしてしまった。よく見ると怪しい小屋の中から仄暗いランプの灯が漏れており、闇の中で何人かの人影が泳いでいる。示し合わせて家の中に入ってしまったようだ。
手製コンロからはまだ蒼い煙がかすかに上がっていた。蒼い煙を見た瞬間、完全に素面になって妙な寂しさを覚えた。骨まで染みるわたる酒が見せる幻でさえ、秋の晩の寂しさには勝てないようだ。不用意に話しかけるようなことにならなかったことに安堵しそっと胸を撫で下ろした。
酔いが回っている間は死ぬことを考えずに済む。ところが素面になってみるとどうだろう。虚しい心持ちでいっぱいになる。儚い幻のような人間の一生の虚しさを酒が癒してくれる。だから中毒者が孤独と死を忘れようと酒浸りになって死んでいくのだろう。ふと酔いが覚めると、老い朽ち果てて死にゆく我が肉体を感じゾッとする。そんな日が来るのだろう。いつの日か最期の夜がやってくる。それはいつの日だろうか。その夜を迎える時、凡ゆる命あるものは静かな孤独に立ち帰って、宇宙の砂となって消えていってしまう。それは寂しいことだ。が妙に慈愛に満ちてはいまいか。この世の一切の苦しみから解放されて心が静まっていく瞬間である。
澄み切った静かな心を保ちながらしばらく道なりに急勾配と、20段ほどの石段を登っていく。とその脇のとある蘭塔場にたどり着く。やっと目的地だ。急に風がなくなったように思われた。鈴虫が威勢よく鳴いていると、かえってひっそり静かだ。
無論、ここに私の他に生きた人間はいない。それなのにどういうわけか慈愛に満ちた眼差しが絶えず私の上に注がれていように感じられるのは気のせいか。血の通った生きた人間よりも、冷たくなって死んだ人間の方が温かい。
もしも運よく、晴れた夜に散歩できていたなら、この三昧場の上空に満天の星空が輝いていてとても綺麗だろう。三昧場の脇に広がる草地に横になれば、明滅している無数の星星の天の川が砂金ように煌めくだろう。しばしこの憂き世を離れて、コップのそこに一人で沈んでしまって、水面の泡つぶを眺めている様な心もちがするのだろうか。
「我れ何所へ行かん。・・・いざや歩み行かな。」萩原朔太郎
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