風水害24を体験して…
お久しぶりです。共同代表のなおきです。
先日、風水害24というゲームを体験してきた。
風水害24とは大規模風水害接近から通過までの24時間をリアルにシミュレーションが可能なワークショップ形式のゲームです。詳しくは下記を。
台風の接近から通過までの24時間を全10ターンで行動しながら、如何に被害を少なく生き残る+他の人を助けれるかを全員の協力プレーで達成しようとするゲームだった。
災害について考えてみるというとっかかりとしてはとても良く出来ているように感じた。
各アクションや、起こる事もとても現実に近いようなもので、この歳になると誰もが一度は経験したことのあるなんともふわふわした台風が近づいてくる感覚を思い出させるようなものだった。
しかし、ゲームとして考えた時に少し残念だと感じたところもありました。
一つは役割についてだ。
15人分の役割りがある。全員別の役割りがあり、それぞれ「シングルマザー」や「自治体長」、「印刷会社の社長」など多岐に渡る。
しかし、それぞれの役割りには特別な力(その役職に与えられた権限的なもの)が殆ど存在していない。
いうならば、シングルマザーと自治体長のゲームにおける役割りは殆ど名前以外の違いが存在していない。
これは、ゲームの仕掛けとしては勿体ないと感じた。
例えば、今回僕は自治体長の役をしたのだが、1ターン使ってハザードマップを取りに行かないといけなかった。自治体長の家にハザードマップが無いことはやはり考えにくい。
だから、各役割りにゲームスタート時に持ってるリソースが違うとかも良い仕掛けになりそうだとも感じた。
もう一つは最後の被害状況報告の時に感じた。
被害状況報告では24時間(計10ターン)終了後にプレーヤーが何人生きていて、何人が重傷・重篤(ライフポイントが半分以下の場合)、町中に取り残された人を何人救えたのかなどを集計して可視化させる。
その集計の中で、プレーヤーがゲーム終了時までに死んでしまった場合、助けた町中の人々は同時に死ぬという設定を聞いたときだ。
何故、助ける側の方が生存率が高い前提なんだろうか?
ここにはおそらく、助ける側の方が総合的な生存率が高くて(おそらくは多くの場合が健常者で怪我や病気なしかつ肉体的衰えもない状態)、助けられる側の方が生存率が低い(何かしらの問題を抱えていて誰かに助けて貰わないといけない存在)というステレオタイプが暗にみえるようでなんともモヤモヤとした。
これでは助ける側はお荷物を抱え込むか否かの選択をゲーム中に迫られるのだが、自分が死なないことを優先するために助けることを二の次にするか、もしくは自分の事を顧みずに助けることを選ぶかの2択に殆どが落ち着く。
しかし、その後の振り返りで助けることが良いことという価値観をかなり強く出される。
結果、自分が死なないための行動を取った人間は責められるという構図が往々にして生まれてしまう。
果たしてそれはableism(頑健な身体を持つ人間を優先する差別)にならないのだろうか?
そんなことを思った体験会だった。
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