書体づくりの現場を訪れて感じたこと
かつて会社員デザイナーとして働いていた頃、大手フォント開発会社を見学するチャンスがありました。普段当たり前のように使っているフォントが、どんな工程を経て生まれるのか。その核心に直接触れられる体験は、デザイナーの身として非常に貴重でした。
訪れる前は「大手なら先端技術を駆使して、短期間で作っているのだろうか」という、ぼんやりした先入観を抱いていました。しかし実際に制作現場を目の当たりにすると、その浅はかさに気づかされました。緻密に、一文字一文字を丹念に仕上げていく光景は、まるで職人の世界。その丁寧さに思わず心を打たれてしまいました。
「数年先のリリース」という驚き
制作室を案内してもらいながら、担当スタッフが静かに集中している姿を見学しました。画面にはシンプルに見える文字が映っているのに、「このカーブが全体バランスを決めるんですよ」と丁寧な説明が続きます。
そこで気軽に「完成したら、いつ販売されるんでしょうか?」と尋ねてみたところ、返ってきた答えは「数年後」。そのタイムスケジュールに驚きを隠せませんでした。
数年かけて仕上げる書体には、どれだけのこだわりが詰まっているのか。効率を求められる現代において、これほどの時間を費やし作り上げるものがあるという事実に、素直に感動しました。
ツールであり、作品でもあるフォント
デザインの現場では、フォントはしばしば「ツール」として扱われます。読みやすさやブランドイメージとの相性を考えつつ、最適な書体を選んで組み合わせるのが仕事の一環。そこに深く立ち入ることは、あまりありませんでした。
しかし、実際の制作プロセスを覗き、フォントはひとつの「作品」であると思い知らされました。文字の微妙なラインや、文字同士が組まれたときの美しさを極限まで追求し、何度も修正を加えながら完成に近づけていく。その結果として、一書体のライセンス料が高額になる理由もはっきり理解できました。そこには、膨大な時間と労力が込められているのですから。
使う人を思い浮かべて
印象に残ったのは、「誰がどんな場面でフォントを使うのか」を常に考えていることです。ロゴや書籍、ウェブサイトなど、多様な場所で使われることを想定しながら、飽きのこない魅力的なデザインを目指しているのだとか。
特に日本語フォントは、漢字・ひらがな・カタカナと文字種が多く、膨大な数の文字を作らなければなりません。一文字ごとの美しさだけでなく、組み合わせたときの調和まで考えるとなれば、その作業は気が遠くなるほど大変です。
フォントへの敬意を胸に
この見学を経て、僕の中でフォントに対する意識が大きく変わりました。一文字一文字に妥協を許さない姿勢、そして、その先にいる使い手への真摯な思い。これらが合わさって、初めて「書体」という作品が成り立つのだと深く感じました。
僕たちデザイナーは、この素晴らしいクリエイティブをどう活かすべきか。フォントを「選ぶ」立場として、その価値と作り手の情熱に敬意を払いながら使っていきたいと思います。
もしこの記事を読んでいる方の中で、「フォントを買うかどうか迷った」という経験がある方がいれば、その背景にある途方もない制作のストーリーを思い描いてみてください。きっと、デザインへの理解がまた一段と広がるはずです。