【絵本レビュー】 『紙芝居 うみにしずんだおに』
作者:松谷みよ子
絵:二俣英五郎
出版社:童心社
発行日:1973年3月
『紙芝居 うみにしずんだおに』のあらすじ:
海が荒れて人がさらわれるとなげく村人の話をきいた鬼の親子は、あらしの朝、大岩をかついで海に入っていき…。
『紙芝居 うみにしずんだおに』を読んだ感想:
悲しいです。小鬼の泣き声がなんだかずっと耳に残っていました。日本の昔話ってなんで悲しかったり、辛かったりする話が多いんでしょう。
これも友人の紙芝居名人、青の婦人が呼んでくれたものです。お話の間中子供達の頭はじっとスクリーンに向いていました。中には見るたびに顔が近づいてきている子もいて、最後は頭のてっぺんしかカメラに映っていませんでした。青の婦人、ありがとう。
村のおじいさんと孫を救いたくて大岩で波を止めるべくうみに入って行った鬼の優しさと強さはわかります。お父さんと離れたくなくて泣きながらついて行った小鬼の気持ちもわかります。でもその結果が親子の鬼の死というのが、辛いのです。
この一年半近く、ロックダウンのため幼稚園もほぼ閉まっていて、行ったのは正味二ヶ月ほどでした。私はフリーランスなので家にいる息子に合わせることができるのですが、結果的に仕事をする時間がなくなってしまいました。一日息子の世話をしますから、彼が寝てからと思っても私ももうぐったりです。Eメールやブログのチェックなどはできても、しっかり座って何かを考えようと思ってもその気力もパワーもありません。大好きなキャンプファイアーの動画でも見てリラックスしようと思っても、昼間できなかった洗濯物の片付けや散らばったおもちゃの整理、お風呂場も汚れていた。。。などと本格的な掃除ではないのに色々と整理するものがあって、やっと終わるともう十二時近くとなっていることもしばしばでした。仕方なく本を持ってベットに行けば、一ページも読まずに寝落ち。
「私って誰のために生きてるんだろう」
こんな疑問が頭に浮かびました。緊急事態なのはわかっています。でも旦那だって家にいるわけですよね。彼は七時ごろ仕事が終わったら息子をお風呂に入れて、昼食の(!)食器をお笑い番組を見ながら洗っておしまい。さっさとシャワーを浴びて好きなYouTubeを見たり本を読んだり、自分時間を満喫しています。
「なんだ、この違いは」
ソファに座ってすっかりリラックスしている旦那を脇目に見ながら考えます。他人のために何かをすることは確かにいいことだけど、そのために自分を大切にしていないのなら、私はどこまで自分をないがしろにしていればいいのでしょう。自分を犠牲にすることは美学と受け止められがちですが、本当にそうなのでしょうか。
この物語を聞いていて、私は三浦綾子さんの『塩狩峠』のあるシーンを思い出していました。鉄道員が事故で暴走する客車を止めるべき自らが線路に飛び降りて、その身体で車輪を止め乗客を救うというところです。この本を初めて読んだとき私はおそらく高校二年生。通学中に読んでいたのですが、あまりの衝撃に息を飲む声が思わず出てしまったくらいでした。確か彼には恋する人がいたような気がします。それなのになぜ。。。彼の行為に同意できず、自己犠牲のあり方に疑問を抱きました。
海に沈んでしまった鬼にしても同じです。小鬼を救おうと沈みながらも腕で息子を水上に支える父鬼。父を失って激しく泣き叫んだ小鬼は、その場を離れず結局石になってしまいました。人間を救うというとてもいいことをしたけれど、残されたであろう小鬼の母はどうなるのでしょうか。「あなたのご主人はいいことをなさった」と言われたところで、息子と夫を失った痛みは減るのでしょうか。
自己犠牲と自己中心的はそもそも対義するものなのでしょうか。困っている人がいたらもちろん手伝ってあげたいと思います。でも、「ここまで」と限界を決めることはそう悪いことだとは思わないのです。自分を労わることが自己中心的というのであれば、そのタイトルを受け取っておきましょう。でもこの身体と一生付き合っていくのは私であって、私がその責任者ですから、私自身がドクターストップをかけて「はい、ここまで」と言えるようになりたいなと思っています。
ちょっと物語の意図とは外れてしまいましたね。
『紙芝居 うみにしずんだおに』の作者紹介:
松谷みよ子
1926年、東京生まれ。坪田譲治に師事。 1951年『貝になった子供』を出版、第1回児童文学者協会新人賞を受賞。以後、『ちいさいモモちゃん』(野間児童文芸賞)、『龍の子太郎』(国際アンデルセン賞優良賞)など、多数の著作がある。松谷みよ子民話研究室主宰。