『哲学あそび』#3
2023年11月23日に『哲学あそび』というイベントの第三回を開催した。
今回も商店街の一角にある静かなお寺を会場に。近くの自販機で缶コーヒーを買ってから向かう。
日中は日差しのおかげで暖かく、日が傾き始めたころストーブに点火した。
哲学あそびがどんなものであるかは、過去のnote(『哲学あそび』#1)をご覧いただければ嬉しいです。
――下記に当日使用したイベント内容の用紙より一部掲載する。
――というものだった。
今回は問いがたくさん掘り出されて、それに対する考えも都度出てきた。それらが流動的に場を過ぎていったので、その様子や話の一部をホワイトボードに書き出した(noteに共に掲載した画像)。
初めに参加者さんから提供されたお話は、
「“どうして死んでしまったの?”という残された人の言葉について、臨床心理士の勉強をしていたときに先生から、カウンセラーの仕事は死因を答えることではなく相手の心によりそうことだ、と言われた。」
という旨の内容だった。
話し手の方はそれを心にもった状態でたくさんの経験をし、その端々に先生の言葉がリンクされてきたようだった。
その話題から、まずは「死をどう解釈しているか」という問いが始まった。
そこから、「日本人の無宗教(?)について」、「結婚式などを含めた信仰(や敬意)の対象への近さ」、「死の感覚について」など。
一通りの後でホワイトボードに書き出してみると、「生きているときの感覚、それ以外のわからなさ」に多方面から光を当ててきた感じもする、と書き足してみたり。
参加者の皆様による、今回の問いへの今回の答えは、こんなかんじ。
・「自分は他人の心がわかる」と断言する人が一番怖いと思っている。
死をどう捉えるかということから多様な考えを聞いて、わからないままにしておくことや、わからないとわかっておくことが大事なんじゃないかなと思った。
・今まで心に持ってきた話をしてみた。
(様々な話の流れの中で)仕草が宗教かマナーか習慣か、などの曖昧さに気づいた。結婚式、仏前でできるんだ!やりたい!と思った。
・死の話が出てくるのが珍しい。祖父などの世代に比べたら、そういうことが軽くなってる。死ぬって何かわからない。色んな捉え方ができる。倫理的に説明できないこと。わからないものにはわからないなりに畏敬の念を感じる。
・わからないということに大らかでありたい。
色んなことを飲み込んでいる国で、受け入れられなくても受けとめられるような大らかさを持っていたいと思った。
上記のような今回の答えを伺って、哲学あそびは「わからなさ」を確認する場にもなり得るんだなということを実感しました。
今回お越しいただいた、初めましての方も、お久しぶりの方も、最近ぶりの方も、皆様のおかげで様々な問いに触れられる座談会となりました。ありがとうございました。
ご協力いただいた皆様、気にかけていただいた皆様も、ありがとうございました。
また遊びましょう。