そこにあることをうむ
asobinotudukiをしていて、最近よく思うことがある。
現在、この仕事における場の提供の対価は、参加してくれる人のフィルターの提供かもしれない、と(もちろん、それだけではないにしても)。
フィルターというのは、主体が客体を見たとき何を感じ考えるか(濾しとるか)、を指す言葉。として、ここでは使っている。
そして多分、人はいくらでもフィルターを持てる。というより、かかわれる、のじゃないかな、と思う。「こんなフィルター(感じ方/考え方)を持つ人が居る」に始まり、そのフィルターが腑に落ちれば「自分の控えフィルターとして持っておく」こともできる。共鳴するほどなら「自分のフィルターに編み込む」こともできる。そうしていると、物事を見る(濾しとる)方法が多彩になる(研磨されるといってもいい)。
フィルターは、つまり宝だ。
場というのは(建物などを貸してくれる方々への感謝は勿論として)、そこにasobinotuduki空間をつくることだ。
主には、一石を投じること、掬いとること、そしてきくこと。を、旨としている(あと、これは内容によりますが、できるだけ楽しくやりたい)。
自分で褒めますけれども、素敵空間だと思っている。
私とご参加の皆さんがやっていることは、私も含めてお互いの宝(フィルター)を提供し合う場「そこにあること」の共同創造になっている気がして、喜んでいます。
共同創造っていうと言葉が強いかもしれないけれど、なんというか、一緒に「うんでいる」感じ、というか。
あらためて、ありがとうございます。色々な方面に。