ゲームから学ぶ、「やりたいこと」の考え方
【ポイント】
「やりたいこと」を見つける時、ゲーム内容にあたる「何をやるか」はどうでもいいし、ゲームの登場人物は意外と「社会貢献でない個人的な目的」のために動いています。
また「ゲーム感覚」で楽しめない仕事を選ぶと、変化が激しく学び続けなければいけない社会で苦労します。
■「何をするか」はどうでもいい
ゲームをするとき、魔王を倒すのか、米を育てるのか、配管工になってお姫様を助けるのかにこだわる人はほとんどいないと思います。つまり、「何をするか」はどうでもよかったりします。過程を楽しむものだからです。
「やりたいこと」がないみたいに言う人がいますが、その時の話題の中心になりがちな「何をするか」は意外とどうでもいいのですよね。
もちろん「やりたいこと」があって、それに携わりたいという人は全く問題ないです。ただ同時に、「この業界に携わりたい」というのがない人も大丈夫だということです。
というので、「医療に携わる」とか、「教育に携わる」というような、ジャンルを固定したり、一貫して同じことをするというような「何をするか」は無理に考えなくても大丈夫だということです。
■「崇高な目的のために動かないといけない」なんてことはない
「何をするか」にこだわりがなくとも、結局「何をするか」は決めなければなりません。その時の注意ポイントがあります。それは、「何をするか」の部分を「社会貢献系」から始めないといけないと思いがちということです。
というのも、最近は社会貢献とかSDGsとかよく聞くのですが、「崇高な目的が必須である」というような風潮があります。
ただ、RPGなどをやる時を考えてみると、「魔王を倒して平和を取り戻すぜ」みたいな「崇高な目的」というのは、あとからついてくるものです。
たとえば、「ゼルダの伝説 風のタクト」とかだと、ぐうたら日々を過ごしていたら、大切な妹がさらわれたから、ぐうたらリンクが頑張り始めてゲームが始まります。リンクも別に「ガノンを倒して平和にするぜ!」という「崇高な目的」で頑張ってなくて、個人的な目的を果たすのにガノンが邪魔だから頑張った感じです。
以下のnoteにそんな感じのことを書きました。「ゼルダの伝説シリーズ」でリンクは大体最初寝ています。
というので、「崇高な目的が必須である」なんてことはなくて、「お金がほしい」とか、「ぐうたらしたい」みたいな個人的な目的から始まってもまったく問題ないです。
自分が幸せになるためというのを第一に持っても大丈夫だと思っています。建前で「崇高な目的」を言っても、本音の自分を騙すことがないようにしてほしいです。
もちろん「ゼルダの伝説」のリンクのように自分の目的を達成することが社会貢献につながれば最高です。
■大事なのはゲーム思考で楽しめるか
「何をするか」とか、「崇高な目的」がどうでもいい理由は、結局のところ「その過程を楽しめるか」、つまり「ゲーム感覚で働けるか」が幸福に直結するからです。
僕は勝手に「ゲーム感覚で、本などを武器に、課題を倒して喜ぶ」ような世界の捉え方をゲーム思考と呼んでいます。
「何をするか」ではなく、「どのようにするか」が重要で、「じゃあどのように働くの?」という疑問への答えがゲーム思考で働くことだと思っています。
また、落合陽一さんの『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書』には、「ゲーム感覚で学ぶ」ことの重要性が説かれています。
「ゲーム感覚で学ぶ」のがなぜ大事かというと、時代がコロコロ変化するから学び続ける必要があり、そのときゲーム感覚で楽しくなければ体力がもたないからです。
つまり、ゲーム感覚でできない仕事を選んだ場合、嫌いな勉強を強いられることになり、あまりにもしんどくなってくるということです。
というので、「やりたいこと」を考えるときは、ゲーム思考で楽しめるかを考えるとうまくいくかもしれません。
【クエスト】
・「何をするか」にこだわらない
・自分の幸せを中心にして大丈夫だと意識する
・「ゲーム感覚」で楽しめるかを考える