雨の日のドリップコーヒー
朝、妻が会社に行くタイミングでいっしょに家を出て、近所のコンビニでコーヒーだけ買って、また帰宅するというのが毎日の習慣になっている。
「犬を散歩に連れて行ってるみたい」と妻は言う。しかし自分ひとりで家に帰っていくのだから、犬のなかではわりかし優秀なほうだと自負している。
でも今朝は雨だったから、散歩は中止(繊細な犬である)。やむなくドリップコーヒーを淹れることにした。
それにしてもドリップコーヒーというやつは、なんて便利なのだろう。家から一歩も出ずにコーヒーを淹れられる。
缶やボトルのコーヒーを買い置きしておく手もあるが、それではコーヒーを「淹れる」ことはできない。
このふたつには、図書館で借りてきた本と、自分で書きあげた本くらいの差がある。自分で本を書くというのは、膨大な時間と労力がかかる作業だ。しかしドリップコーヒーなら、お湯を注ぐだけでかんたんに本が完成する。ちょっとしたひと手間で「自分が書いた」という気持ちになれるのだから、ひじょうにお得だ。また愛着があるから、図書館で借りてきた本よりも心なしか面白く感じられる。
と、あたかも自分で本を書き上げた経験があるかのように語ったが、実はわたしは本を書いたことがない。だからこの比喩も、まったく見当違いなことを言っている可能性はある。
一方、ドリップコーヒーを淹れた経験はたしかにあり、ベテランと言っても過言ではないくらいである。だから自分が知らない本づくりのことではなく、よく知っているドリップコーヒーのことを書こう。
ドリップコーヒーがいいのは、まず、ひとつひとつ個包装になっているところだ。何だか、こっちまで贅沢をしている気分になる。お父さんもお母さんも子どもたちも、みんなに部屋が与えられている家みたいだ。そうして自分の部屋のベッドでひとり、静けさのなかに横たわっている(だから、ちょっぴり寂しそうでもある)。
その包装を破くと、なかからぺったんこになったドリップバッグが出てくる。そのぺったんこ具合には、何百年、何千年とそこで眠っていたミイラみたいな迫力がある。けれども両サイドのつまみみたいなのを引っ張ると、びろーんと広がって、たちまち命を吹きかえす。
人間もいつか、これくらい簡単に仮死状態から復活できるようになるときがくるのだろうか。何百年、何千年とぺったんこのミイラ状態のまま眠りつづけて、あるとき急に手足を引っ張られびよーんと起こされる。それからコップのふちに引っ掛けられて、上からあたたかいお湯が注がれる。
まだ夢見心地のまま、おねしょをしているような気分。あっ! という間にコーヒーのできあがりだ。