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高校の美術室で、裸の母を描く

 放課後の美術室。私は木炭紙をクリップでとめたカルトンをイーゼルにセットして、位置を整えた。
 今日の人体デッサンは三年生の部員限定で、参加は八人。全員女子だ。誰もが無言で、開始を待っている。
 モデル台に上がっているのは私の母だ。裸の上に白いシーツのような布を巻いて、緊張した表情で固まっている。お母さん、リラックスリラックス。私は心の中だけで励ました。

 顧問の先生が時計を見て、言った。
「では、始めましょう。よろしくお願いします」
 教室に緊張が走る。母はひとり小さく頷いた。そしてまた固まった。
「大丈夫ですか?一度深呼吸しましょうか」
 先生が言葉をかけてくれる。母はまたこくりと頷いて、大きく息をした。そして、体を覆っていた布を取った。四十七歳の母の裸身が現れた。白い肌が神々しいように私には思えた。母の裸をこんな風に見るのは初めてだ。

 先生の指示で足の位置を決め、母は立ちポーズをとる。右手を腰に当てたポーズ。先生が壁の一部を指差して、そこを見続けるように指示した。視線を固定するためだ。母は素直に従って、指示された方向を見ている。先生がタイマーをセットした。
 立ちポーズの母を見る。年相応に脂肪がついた体型で、いろいろな部分が重力に逆らえなくなっているが、意外にも肌が綺麗なんだと妙に感心している自分が不思議だ。
 まわりの子たちはすでに木炭を動かしはじめている。紙の上を木炭が滑る音が気持ちいい。母だけど、今日のモデルなんだと自分に言い聞かせる。

 昨日も今朝も、母とモデルの話はしていない。いつも通りの朝食の時間だった。トーストにホットミルク、目玉焼き、グリーンサラダにヨーグルト。母もいつもと変わらない笑顔だった。
「今日部活の日よね?」
 母が触れたのはそこまでだ。
「え、そうだよ。今日はデッサン」
「頑張ってね」
「うん。行ってきます。あの、お母さん」
「何?」
「なんでもない。行ってきます」

 張りつめた空気の中で母の裸身を描く。生々しい大人の女性の身体を木炭で紙の上に再現する。母の持つ身体の量感、周囲の空気感まで描き切れればいいのだが。
 不安そうだった母の表情も徐々に穏やかに変化し、最初の休憩になるまでには落ち着いたようだった。二十分間のポーズを終えて、休憩になった。母は白い布を身体に巻いて、台を降りた。先生と小声で話している。私は描いたばかりのデッサンを点検する。バランスは悪くない。顔はまだ描かない。

 裸でモデルとして立っている母は、いつもの母であり、いつもの母ではない。何を言っているのか自分でもわからないが、そんな気持ちになる。
 冷静にモデルとして形や陰影を追っている私と、母としての存在感を受け止めている私がいる。息をするたびに動いているあのお腹のなかに、かつて私はいた、なんて思ったり。

 休憩をはさんで二十分間のポーズを三回、母はつとめた。最後には堂々とポーズしているようにさえ見えた。私のデッサンもなんとか形になったし、得るものも多かったと思っている。
 母は布を纏ってから一礼し、モデル台を降り、私とは目を合わせることなくそのまま更衣室に入った。私は、お母さんありがとう、と小さく呟いてから片付けを始めた。

 来月のデッサンモデルは私だ。母のようにうまくできるだろうか。母に今日の感想を聞いたり、相談もしたいけれど、話してくれるだろうか。何事もなかったかのように、違う話題で夕食の時間が過ぎていくのかもしれない。それならそれでもいいのだけれど。
 でも、やはり今日は特別だ。母を抱きしめて、甘えてみたい。私はそんなことを考えながら片付けを終え、美術室を出る。

 

 

 


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