(連作:明日は撮影) 春休みのヌード
明日は撮影だ。裕美子は風呂上がりに大きな姿見に自分の姿を映してみる。
まだ成長の途上にある胸も含めて、子供っぽい体つきだという自覚はある。
そんな自分をモデルに写真を撮りたいという潮田くん。大好きな潮田くん。
明日は彼の前で裸になる。裸を撮られる。
まだ私たちキスもしたことがないのに。
二年生の春に同じクラスになってから、白石裕美子にとって潮田拓也はとても気になる存在だった。ずっと気になっていたと言っていい。気になるとはどういうことなのか。よくわからなかった。気になってしまうという気持ちが先にあって、その理由がわからない。ただ、気になりはじめるといろいろなことが気になる。授業中に見せるちょっとした仕草、静かな低い声、シャツのシワ、シャツからのびる腕のかたち、使っているノートのデザイン、ペンの持ち方、なんでも気になる。
正直に言うと、気になっているのではなく、好きなのだ。潮田くんが好き。これは理屈ではない。この気持ちは自分でうまくコントロールできない。中学生の頃、片思いをした男の子がいたけど、その時の気持ちとは何か大きく違っていて、それがなぜ違うのか自分に説明できないし、この気持ちのゴールがどこにあるのか、裕美子にはわからなかった。
化学の実験の授業で潮田と同じ班になれただけで胸がときめく自分がいる。彼は物静かで、良く言えばクールだ。暗いと評する友達もいるけれど、裕美子はそうは思わない。好きだからそう思うのだろうか。暗いと思うならそう思っていれば良い。ライバルが減るではないか。彼は物静かだが、暗くはない。目の輝きを見ればわかる。美少年とはいえないが、清潔感がある。素敵ではないか。勉強も運動も普通にできる。飛び抜けてはいないが、普通だ。成績も裕美子と同じくらいではないだろうかと、勝手に想像している。
潮田は写真部、裕美子は合唱部だ。同じ文化部だけど、合唱部は舞台に立って自分たちの表現をする。写真部は自分は表に出ないで作品を提示する。表現のしかたは違うけど、なにかを表現したい気持ちは同じだと思う。気持ちが通じ合えるといいなと裕美子は思う。
たまに下校が一緒になって、バス停まで歩きながら話をすることもあるけれど、短い時間だしまわりに他の生徒もいるから深い話はできない。もっとお話してみたい。気持ちを伝えたい。裕美子は常にそう思っていた。
バレンタイン・デーに、裕美子は潮田への手紙を書き、チョコレートと共に手渡した。手紙を書くのに何日もかかった。
長い手紙は嫌われそうで、何度も書き直した。国語の授業の何倍もの集中力を使って、裕美子は心を込めて手紙を書いた。
便箋を丁寧に折り、封筒に収めた。可愛いシールで封をした。
不安で、もう一度読み返したかったけれど、封をした。読み返したらまた書き直したくなってしまうかもしれないから。
チョコレートと封筒を一緒に、紙袋に入れた。ドキドキする気持ちを、裕美子は少しだけ楽しんでいた。
手紙を渡した翌日、潮田と顔をあわせるのが怖かった。手紙のせいですべてが終わってしまうような気持ちさえあった。
朝の教室には裕美子が先に着いていた。潮田は別の男子生徒と一緒に教室に現れた。裕美子の視線に気づいた潮田はちょっと照れ臭そうに微笑み、裕美子に小さく片手をあげてくれた。裕美子は自分の中にあった不安が一気に溶けていくのを感じた。潮田くんに無視されなかった。微笑んでくれた。いまはそれだけで十分だ。
授業が始まり、教科書を開いても内容が入ってこない。しっかりしなきゃ。裕美子は自分に言い聞かせる。それでもちらちらと潮田くんの方を見てしまう。しっかりしなきゃ。
昼休み、廊下で潮田くんに声をかけられた。
「今日は部活あるの?」
「今日は無いよ」
「一緒に帰れる?」
「うん!嬉しい」
嬉しいが余計だったかしら、と裕美子は反省した。
放課後、二人はバスに乗らずに駅まで歩いた。
「チョコレートありがとう」
「手作りじゃなくてごめんね」
「ぜんぜん気にしてないよ。手紙も嬉しかった」
「他の子からもチョコ貰った?」
「白石さんだけだよ。白石さんのこともっと知りたくなった」
「本当に?」
「本当に。僕のことも話す。なんでも訊いて」
裕美子は潮田に抱きつきたい気持ちを抑える。まだそんな段階じゃないよ裕美子、と自分に言い聞かせる。
来年の受験のこと、家族のこと、部活のことなどを、ゆっくり歩きながら話した。下校する生徒たちを乗せたバスが二人を追い越していく。
潮田の家は両親とも仕事をしていて、たまに潮田が夕食の支度をすることもあるという。裕美子の母は専業主婦で、裕美子はまだ料理が得意ではない。
「僕も得意っていうわけじゃないよ。仕方なくやっているだけで」
潮田の気遣いが嬉しい。
潮田には大学生の姉がいて、美大で日本画を学んでいるとのこと。裕美子には中一の弟がいる。弟はまだ子供みたいでケンカばかりしているの、と裕美子は告白した。まだ話し足りないと裕美子は思ったが、駅に着いてしまった。二人が乗る電車は逆方向だ。改札を入って別れる間際に、部活がない日はなるべく一緒に帰るようにしよう、と潮田から言ってくれた。裕美子は「すごいぞ、バレンタイン・デー!」と心のなかで叫んだ。
部活のない日は一緒に駅まで歩いた。並んで歩くだけでもとても嬉しいことだったけど、潮田と話せることが何よりも嬉しかった。裕美子は写真部での潮田について訊いてみる。
「モノクロのプリントの練習をしていることが多いかな」と潮田。
「部員は皆それぞれ自分の興味でやっているから、活動はけっこうバラバラなんだ」
「プリントの練習って?」
「印画紙に写真を焼き付けて、それを現像液につけて写真にしていくんだけど、その時のいろいろな技術を勉強している」
「なんだか難しそう」
「写真は化学反応でできているから、温度の管理とか露光時間とか、いろいろなデータを取りながら練習しているんだ。基礎的なことかもしれない」
合唱部の発声練習とかと同じかしら、と裕美子は思う。まず声が出ないと始まらない。
「現像液の中に沈んでいる印画紙に、ふっと画像が浮かび上がってくるときのドキドキする感じは好きなんだ。魔法みたいで」
写真について語る潮田は詩人のようだと裕美子は思った。知的でちょっと謎めいた雰囲気があって、ますます好きになっていくのを裕美子は感じていた。
ある日の放課後、潮田は裕美子を図書室に誘った。
「帰る前にちょっと寄りたいんだけど、いい?」
もちろん。潮田の誘いならどこにでも行くと裕美子は思っている。
図書室に入ると、潮田は雑誌が並んでいる棚から、趣味のカメラ雑誌の最新号を手にとった。閲覧室の隅の席に裕美子と並んで座る。
「これに僕の作品が載ったんだ」
潮田は囁くような小さな声で言いながら雑誌のページをめくっていく。「月例コンクール」というコーナーのモノクロ写真の部で、銀賞の写真。潮田の名前があった。写真は女性のヌードだった。裕美子は息を飲む。
「これ……潮田くんが撮ったの?」
モノクロの綺麗なヌード。裸だけどぜんぜんいやらしくない。と裕美子は感じた。アート、という言葉が一番当てはまりそうな、そんな写真だった。モノトーンの美しい階調で、暗く落とした背景の中に輝くような女性の姿があった。背中から腰にかけてを大胆に切り取った構図だった。
写っているのは誰?裕美子の興味は、作品としての写真の美しさから、そのモデルに移っていった。プロのモデル?それとも潮田くんの彼女?裕美子は自分を落ち着かせようと大きく息をした。
「これ、姉ちゃんなんだ。いつか話した美大生の姉」
「そうなんだ……」
裕美子はなぜかほっとしている自分が不思議だった。
「顔は写らないようにする。入賞できたら賞金は山分け、という約束で撮らせてもらったんだ」
「そうなの。びっくりしちゃった。潮田くんの彼女かな、なんて」
「そんな人いないよ」
潮田は苦笑する。
「でも、きれいな写真」
「これは印刷だから表現しきれていないけど、プリントはもっと綺麗だよ。階調の深いところまできれいに出ている」
潮田は技術論で「きれい」と言っているようだが、裕美子は、この女性が、この肌がきれいと感じていた。
「こういう写真撮る男は嫌い?」
「ぜんぜん。そんなことない。この写真好きよ」
これは裕美子の正直な気持ちだ。これは才能だし、素敵な表現だと理解できる。
「ありがとう。あんまり皆には言いたくないけど、白石さんには知っておいてほしかったから」
「私こそありがとう。潮田くんすごいんだとあらためて思った」
潮田はこうして大人たちと対等に表現を磨いて、評価を受けている。これは本当に尊敬できる事だと裕美子は強く思った。
「お姉さんと仲がいいのね。こんなに協力してくれるなんて」
「仲は悪くないと思うけど……何を考えてるのかわからないところも多いんだ。でも同じ表現者を目指しているっていう仲間意識はあるのかも」
「いい関係だよね。うちなんかケンカばかりで。頼まれても嫌だな」
「それが普通だと思うよ。うちがちょっと変なんだ」
閲覧室での囁き合うような会話はそこで終わり、潮田は雑誌を閉じた。
この日から二人の距離はさらに近づき、お互いの部活がない日に一緒に帰ることも増えていった。
ホワイトデー。潮田は裕美子に小さな包みを手渡した。裕美子は合唱の部活が終わると急いで帰宅し、自分の部屋で、包みを開く。小さなクッキー缶と封筒が入っていた。色々な話をできるようになった私たち。潮田くんが改めて手紙にしてくれる事って何だろう?期待も不安もある。
深呼吸をして、丁寧に封筒を開く。銅版画のような繊細なイラストのついたカードが入っていた。そこに潮田の特徴のある文字があった。
私??手紙を読み終えた裕美子は自分でわかるほどに頬が紅潮していくのがわかった。心臓もばくばくと音が聞こえそうな程だ。潮田くんが私を撮りたいって。図書室で見たあの写真が脳裏に蘇る。潮田くんが私を。裕美子は目を閉じる。カメラを構えている潮田の姿を想像してみる。
手紙をもらった翌日、裕美子は潮田の顔を見ることができなかった。嬉しさが蘇って赤面してしまうかもしれないという怖さがあったから。視線をちょっとだけ合わせるのが精一杯だ。用意しておいたメモを手渡した。「放課後図書室に」
放課後、閲覧室の隅の席で裕美子は潮田を待った。閲覧室は空いていた。ノートを開き、勉強している風を装う。
すぐに潮田が現れ、裕美子の隣に腰掛けた。
「呼び出してごめんなさい」
裕美子はノートを閉じ、囁くように言った。図書室で囁き合う小声デートを二人は気に入っていた。
「ぜんぜん。嬉しいよ」
「手紙、ありがとう。嬉しかった。クッキーも」
「びっくりした?」
「え?」
「手紙」
「うん。ちょっとびっくり」
「嫌だったらいいんだ。無理にとは言わないから」
「嫌じゃないわ。でも、考えさせて」
「待ってる。返事はいつでもいいから」
「あの……」
「何?」
裕美子はさらに声を潜めて言った。
「脱ぐのよね?」
「うん。やっぱりだめかな?」
「わかんないの。考えさせてほしい」
「突然言われても困るよね。ごめん」
「いいの。潮田くんの作品になってみたい気持ちはあるの」
「返事はいつでもいいから。あんまり悩まないで。それより今まで通りに付き合ってもらえる方が嬉しいから」
潮田はぺこりと頭を下げた。
今日から春休みだ。進級試験も問題なく、潮田も裕美子も四月から三年生だ。潮田くんと一緒に三年生になるんだ、と自分に言い聞かせて勉強した。交際のせいで成績を下げてはいけないと裕美子は自分に課した。
進級すればクラス替えがある。十クラスの中でまた同じになれるかどうか不安だが、クラスは違っても同じ学校だ。図書室で会えるのだ。
そして明日はいよいよ撮影だ。
あの後、裕美子は何日か考えて潮田に手紙を書いた。直接話すのは照れ臭かった。
手紙を渡した後、後悔はないけれど、落ち着かない日々を裕美子は送った。
潮田と打ち合わせをして、撮影は明日になった。潮田の家で撮る。彼の姉を撮影したのと同じ潮田の部屋で。平日の昼間だから潮田の両親は不在で、落ち着いて撮影できそうだと潮田は言っていた。
裕美子は入浴後、鏡に自分の姿を写してみる。やっぱり子供の体型だ。それでも潮田くんは撮りたいと言ってくれた。どんな撮影になるのか、どんな作品になるのか楽しみだと裕美子は本心から思っている。
楽しみであると同時に、緊張している。とても緊張している。明日は震えてしまうかもしれない。泣いてしまうかもしれない。それが不安だ。
今夜は早く眠ってしまいたい。すぐに明日になってしまえばいい!と裕美子は思った。
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