(連作:明日は撮影)カストリ雑誌
空襲の傷跡は街のいたるところに残り、大きな駅の周囲には闇市の露店がぎっしりと並んでいる。皆、生きるために精一杯で、人々が明るさを取り戻したとはとても言えない状況が続いていた。
それは焼けて廃墟のように見えるビルだったが、階段を降りた地下に写真スタジオがあった。文子は白い大きな幕の前に置かれた丸椅子に、浴衣を羽織って腰掛けている。
スタジオに入る前、美容担当の女性が髪と化粧を整えてくれた。しっかり化粧をするのは何年ぶりだろうか。甘い香りに包まれた文子は鏡の中の自分を見る。陰のある、神秘的な表情をした女性がそこに映っていた。
「これでよし。素敵よ」
美容担当の女性に両肩をぽんと叩かれた。
「気持ちを楽にね」
しかし、心臓が飛び出しそうという言葉以外思いつかないような緊張の中に文子はいた。まもなく撮影が始まる。
明るい照明が点り、カメラマンが「始めましょうか」と声をかけた。はい、と小さく応えた文子は立ち上がる。大きく1回、深呼吸をして、目を閉じた。浴衣を脱ぎ、裸になった。全身の肌に触れる空気を感じ、あらためて覚悟を決めた。
夫は戦争末期に召集され、南方で戦死した。詳しい状況は知らされなかった。夫を亡くしてすぐに戦争は終わった。日本が負けた。無駄な死だとは思いたくないが、すでに勝てない戦争となっていた軍の兵士とは何だったのかと、一人泣く夜もある。
夫も家も失い、焼け野原の東京の景色が文子の気持ちを沈ませるが、二人の子供を守り育てなければならない現実があった。現実を生きなければならなかった。文子は沈んだ気持ちを立て直そうと日々努力していた。
住んでいた借家は焼けてしまったが、家主が建てたバラックの一室に間借りしている。家主は遠い親戚にあたり、以前から懇意にしてもらっていた。家賃の猶予や、野菜が手に入ると分けてくれたりもした。しかし文子たち親子は常に食べるものに困っていた。闇市の食料品は高く、なかなか買うことができない。縫製工場の下請けの針仕事を内職でやっているが手間賃は安く、子供を育て生活していくのには厳しい状況が続いていた。
そんな暮らしをしていたある日、子供を家主夫婦に預け買い物に出た。闇市で芋でも買えればと思った。
「田中さん?」
人混みの中から声をかけられた。
「田中さん、いや、加藤さんじゃないですか?」
田中は結婚前の文子の姓だ。そして、聞き覚えのある声。周りを見回す。
「やっぱり。僕です。坂本です」
結婚前に勤めていた印刷会社の上司だった男、坂本がすぐ隣にいた。闇市のマーケットは常に多くの人たちで混雑している状況だったから、坂本と再会できたのは奇跡のようだと文子は思った。信頼できる知人たちの多くの行方がわからなくなっている中での再会に、文子の気持ちは明るくなった。
「坂本さん!お久しぶりです」
心からの笑顔になったのは久しぶりだ。
「お元気でしたか?」
坂本は質素だが清潔そうなスーツを着ていた。
「はい。なんとか」
文子は戦争中と変わらないもんぺ姿を恥じた。
「そうですか。こんな偶然があるなんて。加藤くんは?」
「亡くなりました。戦死です」
「……そうでしたか。これはとんだことを」
「どうかご心配なさらずに。受け入れるしかありませんから」
文子は勤めていたころ、事務や電話番などをしていたが、上司である坂本はそんな文子を「事務の女の子」扱いはせず、上司と部下ではあるが対等な人間として仕事を任せてくれるような男だった。会社内の短歌の同好会にも誘ってくれる知的な面もあり、文子は坂本をとても信頼していた。不良社員からつきまとわれた時にも坂本が助けてくれたし、同じ会社に勤めていた夫との出会いから交際を応援してくれたのも坂本だった。戦争中は連絡が取れなくなっていたが、無事でいてくれたことが嬉しかった。夫が生きていれば、坂本との再会を喜んでくれただろうと文子は思った
「少し時間ありますか?」
こうして敬語で接してくれるのも昔から変わらない。
「よかったら少しお話ししましょう」
坂本は闇市で芋と焼き菓子を買い、菓子はお子さんたちにと文子に渡した。喫茶店に入りお互いの近況を話した。
文子にとって久しぶりの喫茶店だった。焦げ臭いコーヒーと簡素なドーナッツだったが、日常の苦労を忘れられるような気がした。
坂本はかつての同僚たちと出版社を始めようとしていた。大衆向けの雑誌を出す。雑誌の話になると坂本の表情はさらに明るくなった。信用できる複数の出資者が資金を準備した。印刷会社時代のツテもあり、用紙の確保や印刷の手配、執筆者も決まりそうだ。そして、内容次第だが雑誌を継続することができれば安定した仕事になるかもしれないと坂本は希望を語った。
坂本の話ぶりや表情は昔のままだった。かつて信頼できる紳士的な上司だった坂本が現在も精力的に動いている姿をみて、頼もしく、輝いて見えた。
坂本も当時の文子の真面目な働きぶりや、思慮深く知的な態度を評価していたから、文子の置かれている現実を心配してくれた。
「あなたの力になりたい」と言ってくれた。
「どういう形になるか今はわからないけど、必ず力になります」と。
文子は雑誌の成功を祈り、連絡先を交換して坂本と別れた。帰宅し、もらった菓子の半分を家主に渡し、残りを子供に与えた。坂本が買ってくれた芋も助かる。文子は坂本との再会を亡き夫の写真に向かって報告した。軍服の写真は嫌いなので、私服で微笑んでいる写真だ。
「坂本さん、お元気そうでしたよ。あなたに会いたがっていました……」
しばらくして、坂本が文子のバラックを訪れた。少しだが米を持って来てくれた。
夫の遺影に手を合わせたあと、実は今日、お願いがあって参りました。と坂本が緊張気味に切り出した。額の汗をハンカチ代わりの布切れで拭っている。
「どんなお話でしょうか?」
坂本の緊張が伝わり、文子も姿勢を正す。
「なんでも、仰ってください」
坂本が緊張して、お願いがあると言う。何か困っていることがあるのなら、力になりたい。文子は思った。
「何でしょう?」
坂本は沈黙してしまった。
「仰ってくださいな。私にできることなら」
坂本は湯のみの冷めた茶を一口飲んだ。
「実は」
「雑誌のことかしら?」
「はい」
「どのような事でしょう?どうか仰ってください」
「雑誌の準備は進んでいます」
「はい」
「その雑誌のことで、お願いに参りました」
そこまで言って、黙ってしまう坂本。急かさずに待とう、と文子は思った。坂本はまた何か考えているようだ。額の汗を拭った。
「創刊号の巻頭に、女性の写真を載せます。大衆向けなので、そういった狙いで」
「はい」
文子も戦後あらたに始まった雑誌をいくつか見たことがある。それらの誌面には女性の裸体写真が掲載されていることが多かった。
「その写真のモデルの候補に、これまで何人もの女性と会いました。私と写真家で」
「はい」
「しかし、どの方もうちの雑誌にはどうもふさわしくないといいますか。大衆向けとはいえ、我々の雑誌の品位といいますか、求めている人に出会えない。偉そうな言い方ですが、芸術として通用するものを多くの人に届けたいと考えていました」
「すばらしいと思いますわ」
坂本の真摯な取り組みと苦悩が文子にも理解できるような気がした。
「それで、ですね」
「はい」
「たいへん申し上げにくいのですが、その写真ページのモデルになって頂きたい」
「はい?」
「あなたに創刊号の巻頭を飾ってほしいのです」
「私が雑誌に?」
「はい」
今度は文子が沈黙する番だった。坂本にはこれまで公私ともに世話になってきているし、尊敬もしている。戦後の混乱期にあっても、真面目に社会と向き合おうとし、雑誌を企画したのだ。もちろん生活の糧を得るためという理由もあるだろう。しかし、ただ金のために動いているのではないことが文子にも理解できる。その坂本がこれだけ緊張して申し出てくれた話である。
「あの」
ようやく文子が口を開いた。
「裸に、なるのですか?」
「申し上げにくいが、そうです。お願いしたい」
坂本が深く頭を下げる。
「お顔をあげてくださいな、ね。坂本さん」
坂本が顔を戻して文子を見た。
「私のようなもので通用しますか?もう三十歳をすぎてます。栄養も足りなくて痩せています」
自分でも驚くほど冷静に言葉が出た。これは本心だった。貧しく痩せた三十過ぎの女の裸が芸術になるのか、素朴にそう思った。しばらくの沈黙の後、坂本が話し出した。
「あなたのような知的で清楚な雰囲気を持った人こそがうちの雑誌にふさわしいと考えました。巷にある裸の写真とは一線を画することができる、崇高なものが撮れると確信しています。裸になってもらいますが、他誌のような露骨で下品な写真にはしないつもりです。そこは約束できます」
「それから、失礼な言い方になってしまうかもしれませんが、モデル料は即日でお払いできます。当面のまとまったお金になると思います」
「それは、助かりますけど……」
「僕も悩みました。眠れないくらいに。かつての部下に頼めることだろうかと、自分を責めたりもした。ただ、こういう言い方は失礼になるかもしれないが、肌を見せるだけです」
「はい」
「あなたが思いつめて悪い道に進んでしまわないとも限らない。これも失礼だろうか。あなたは思慮深く慎重な人だから、簡単に悪い道には外れないだろうと僕は信じています。しかし、それでも、もしかしたらと心配なんです。あなたが真っ直ぐな人だからこそ」
文子は街で声をかけてくる怪しげな男たちのことを思った。仕事あるよ、と文子の全身を舐めるように見る男たちだ。もちろんそんな連中についていく気はない。坂本は続けた。
「雑誌が安定したら、あなたには写真のモデルではなく、原稿整理の仕事や短い文章を書いてもらうこともできる。してほしいと思っています。考えて頂けないでしょうか?」
坂本は再び深く頭を下げた。
文子は返事を保留して数日を過ごした。苦しい生活は変わらないし、状況を打開するいい考えもうかばない。幼い子供達を食べさせなければならない。
カメラの前でポーズする自分を想像する。撮影に立ち会うであろう坂本を想像する。印刷された自分の姿を想像する。出来上がった雑誌を見る人たちを想像する。
真面目な性格の文子は、ずるいことをしてうまく闇市で立ち回るようなことは苦手だった。しかし、真面目なだけでは生きて行くのが厳しい時世でもあった。闇米を食べることを拒否して亡くなった裁判官もいた。困窮して闇市で客をとるようになった女性教師もいた。
誰かを騙したり傷つけたりせずにお金を得ることができるなら、肌を晒すことくらい何だというのか。傷つくのは自分だけだ。自分の尊厳をぎりぎり守りながら子供たちを救う道を文子は選ぶことにした。会社時代の坂本の恩にも応えたい。
悩んだ末に坂本に連絡をした。もういちど確かめておきたい。いつかの喫茶店で待ち合わせた。
「本当に私の写真で雑誌が売れるのでしょうか?」
「もう、今はあなたしか考えれらません」
「自分では本当によくわからないのですが。私でお役に立てるのなら、やらせていただきます。ただ、一度だけと約束してくださいますか」
坂本は一度だけという条件を承諾した。
「必ずいい写真にします。誰が見ても恥ずかしくないような、すばらしい写真に」
撮影の日を決めた。撮影には坂本が立会い、危険なことは決して起こらないようにしてくれるとのことだった。撮影時は子供たちを家主夫婦にみてもらうことにする。どうしても一人で行かなければならない用事ができたとだけ話した。
撮影の前日、子供達を寝かしつけ、ごめんね、こんなお母さんでと、寝顔に語りかける。
「あなたたちがお母さんの宝なの。そして、お父さんの宝でもあるの。宝は命がけで守ります。おかあさん、恥ずかしいなんて言っていられない」
「そして、あなたたちのために決めたことは誰にも恥じることはない。お母さんがんばるね」
と子供達に微笑みかける
夫の笑顔の写真。小さなものだが、引き出しから出して壁に立てかける。文子は寝巻きを脱いで夫の写真と対面する。
「わたし、この体を晒してお金にします。どうか、どうか許してください」
「子供たちは私が守ります。だから一度だけ、許してください。おねがい」
文子は涙を流す。小さな鏡に自分の裸身を映す。文子は涙を拭き、鏡に微笑みかける。寝巻きを着直す。覚悟は決めた。明日はモデルとしてカメラの前に立つ。
文子は布団に入り、もう一度、許してください、と呟いた
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