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2-8. お気に入りの場所

セーリングを終えて岸に戻った頃には、少し陽が傾きかけていた。砂まみれの足を軽くタオルではたくと、ジョージはスリップオンに素足をつっこみ、バイクにまたがった。私も真似してスニーカーを裸足でつっかけた。汚れた古いスニーカーを選んでオーストラリアに持ってきた自分の先見性を褒めたかった。

身体の表面に吹き出た汗と潮と砂をバイクの風で乾かしながら、来た道を戻ってゆく。と、思ったのもつかの間、坂道を登りきったあたりでジョージは急にバイクを減速させ道路脇に寄せると、エンジンを止めた。

「どうしたの?」
「降りて」

何か調子でも悪くなったのだろうか。私は後部席からそろそろと降りた。あたりは住宅街で、ショップやカフェなどは何もない。こんなところにバイクを止めて、どうするのかと私はいぶかしんだ。

「さて、ここだ」

ジョージはそういうと、歩道の上にあるベンチに近づき、腰を下ろした。
「ここに来てごらん」

Come here, そう言われるままにジョージの隣へ私も座った。

「ほら」

そこはちょうど二軒の家の間で、その間からハーバーブリッジがのぞいていた。

「わぁ」

高台から見るせいなのか、波が一層きらきらと美しく見える。それは絵葉書のデザインにはならない角度なのかもしれないが、地元に住んでいる人だからこそ知っている特別な眺めなのだと感じられた。自分がシドニーの一員になれたような気がして、私は頬をゆるめた。

「完璧な位置にベンチがあるのね」
「ここは偶然見つけたんだけどね。こんな歩道の何もないところに、なぜベンチがあるんだろうと思って座ってみたら、謎がとけた」
「ありがとう、こんな素敵な景色を見せてくれて」
「どういたしまして」

ジョージは出会った日と同じ、顔いっぱいの大きな微笑みを浮かべていた。
彼にとって、こういう親切はなんということのないものなのだろう。そこには押し付けがましさや遠慮はなく、ただ好きなものを誰かに分け与えたいというシンプルな喜びだけがあった。

何もかもが新しい一日だった。一瞬一瞬が、とても貴重だった。植物の根がひとしずくずつ水を飲むように、心が一つ一つの刺激を大切に受け止めていっているのがわかった。

「誰かと一緒にこんなにのんびりした一日を過ごしたの、すごく久しぶり」

家族も、友達も、デート相手も、誰かといるといつも、心からくつろげない緊張感があった。「相手から期待されている自分」を振舞わなければいけないプレッシャーを感じていた。

楽しい時間を過ごさなくてはいけない。
時間を有効に使わなくてはいけない。
相手に心地よくなってもらわなくてはいけない。

お金。時間。エネルギー。マナーや気遣い、あたりさわりのない楽しい会話。有意義な時間、恥ずかしくない服装、常識的な振る舞い——あるいは、ちょっと非常識なことが面白いとされる場では、あえて少し羽目を外してみせる振る舞い。

礼儀、社交、コミュニケーション。それらは社会生活に必要なものだとは思う。
けれど屈託なくそれらの交流を楽しみ、素直な自分で誰かとつながることが、私はなかなかできなかった。他人が怖かったし、信用できなかったし、どこかでつまらないと感じていた。あるいは、相手に気に入られようとして自分ではない人間を演じることで疲弊していた。

人が怖いというよりかは、傷つくことが怖かったのかもしれない。嫌われることが、だめなやつだと思われることが、相手をがっかりさせることが。私はいつもどこかで相手を突き放し、見下すことで、ひ弱な自尊心を保っていた。あるいは相手が望むような人間であるかのように振る舞って、距離を保っていた。
そしてその恐怖と不安の底には、どうしようもない自信のなさがあることに、私は気づいていた。気づいていたけれど、それを認めることも恥ずかしくてできなかった。

自分と一緒にいて、相手が楽しいと思えるだろうということが信じられなかった。自分には価値がないとどこかでずっと思っていた。だから、そんな自分に近づいてくる人のことも大したことのない人間にしか見えなかった。損得勘定のある人間づきあいの方が安心できた。

誰かと、こんなふうに対等に友達になれたことが嬉しかった。遠慮も緊張も屈託もなく、誰かの前で心の赴くまま自由に好きに振舞って問題がないと感じられたのはほんとうにひさしぶりだった。もしかしたら、初めてだったかもしれない。

—— どうしてこの人と一緒にいる時は、こんなに自由になれるんだろう?

出会ったのが旅の途中だったからかな、と私は結論づけた。旅は一時的なものだ。そして、自由だ。だから自分を飾らなくてすむし、その場を最大限楽しむことだけに集中すれば良い。同じ瞬間が二度とないことを知っているから、私たちはありのままの自分たちで、素直でいられる。

「ボートに乗りたければ、いつでも言って。喜んで招待するよ」
ジョージは請け合った。
「ありがとう」

私も素直に、彼の好意を受け取ることができた。持っているものを与えるという優しさと、与えられたものをありがたく受け取るという感謝の好循環とは、こういうものなのかと私はぼんやり思った。

ホステルの前でバイクを降り、私はヘルメットを脱いでジョージに渡した。
「ありがとう、じゃあまた」
私は舗道に降り立つと、ヘルメットを外してジョージに差し出した。
ジョージはそれを受け取ると、自分もヘルメットを外し、何かを考えるような目をして私をしばらくじっと見た。

「何?」
私が首をかしげた瞬間、ジョージは私の手を掴むと自分の方に軽く引き寄せ、私にキスをした。

何が起こったのかわからなかった。それくらい素早く私の唇から離れると、ジョージはヘルメットをかぶり、バイクのエンジンをかけて走り去っていった。私はぽかんとそれを見送った。

——今のは、なんだったんだ?

あまりにも軽く、あまりにも短かすぎて、それはキスかと問われても自信を持ってこたえられないくらいにカジュアルな所作だった。

ただその一瞬、世界が止まったように思えた。
それはジョージの匂いのせいなのか、シドニーの街に照り返す残暑の太陽なのか、それとも乾いた唇の感触なのかはわからなかったけれど、特別な瞬間が流れている、という事実は私の中に波のように押し寄せた。

どうして良いかわからず、私はとりあえず自分の部屋に戻った。けれど、まだ外は明るい。殺虫剤の臭いがする部屋に閉じこもっているのは嫌だったので、諦めて近所のスーパーマーケットに行き、なるべく時間をかけてパンとサラダとインスタントヌードルを買って、ホステルに戻った。

狭いキッチンでヌードルをすすりながら、さっき自分の身に起こったことについて私はもう一度考えてみた。ゴミ箱に入りきらないピザの空き箱と、洗っていない食器が散乱しているシンクが目の前にあるのに、思い出すのは今日見た波のことばかりだった。

やはりあれは、キスだったのだろう。ただ、100%の恋愛感情の発露というよりは、友人から恋人へと移るかどうかを尋ねるような、ひどくあいまいなキスだった。

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