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2-5. Paying Forward

――ホステルを変えなくちゃ。

シドニー観光から戻り、私はゆううつな気分でベッドに横たわっていた。
とりあえず3泊を申し込んだものの、鍵は壊れているしゴキブリは出るしで、もう一日だってこのホステルには泊まっていたくない気分だった。おまけにこの物価高のシドニーにありながら、キッチンは申し訳程度のものしかなく、小さな冷蔵庫と電気コンロではスーパーで食材を買って料理して節約することもできそうにない。

悲しい気持ちでラップトップを開き、近所のホステルを検索して見比べる。どれも似たり寄ったりのようにも見えるが、少なくともキッチンが大きめのところを予約した。

――今日もカップラーメンかなぁ。

冷凍食品か、インスタントラーメンくらいしかこのホステルの備品で作れそうなものは思いうかばなかった。これからしばらく、仕事と家が決まるまでは一人ホステルでラーメンをすする夕食になるのだろう。一週間先の予定すら見えないという状況は、わかっていたとはいえなかなかにストレスだった。
その時、携帯にメッセージが入った。

《シドニーへようこそ!今日知り合いのミュージシャンが出演するライブに行くんだけど、一緒にくる?》

ジョージからだった。沈んだ気持ちを振り切るのに願ってもないタイミングだ。私は即座にYesと返事を送った。

《OK! バイクで迎えに行くよ。どこに泊まってるの?》
《Kings Cross駅そばのKangaroo Lodgeってとこ》

――バーだったら何を着て行ったらいいかなぁ。

ぼんやりと考えていると、もう一度メッセージがきた。

《5分で着くよ》

5分?! 思いがけない早さに飛び起き、私は慌ててトランクを漁った。黒いパンツにキャミソールとカーディガンを身につけ、薄手のジャケットを羽織り首にストールを巻く。ショートブーツに足を突っ込んでいると、再び携帯が鳴った。

《外にいる。焦らなくていいよ》

ホステルの急な階段をバタバタと駆け下りると、ライダースジャケットに身を包んだジョージがいた。くたびれたインディージョーンズからくたびれたイージーライダーみたいになっている。私を見つけると、顔いっぱいに笑みを浮かべた。

「Well, well… シドニーへようこそ!!」
「ありがとう」

私は息を整えていった。ウルルでほんの数時間だけ一緒に過ごしただけの間柄なのに、昔からの友人に再会したような気分だった。

「これを被って」

差し出されたフルフェイスヘルメットは重たくて窒息しそうだったが、私はなんとかあるべき位置に目と鼻を落ち着かせることができた。ピアスが食い込んで耳が痛い。出かける前にメイクや髪型を心配する必要はなかったようだった。

『カワサキ乗りには変人が多い』というステレオタイプはオーストラリアでも当てはまるのだろうかと思いつつ、私は注意深くステップに足を乗せ、ジョージの後ろの席によじ登った。

「バイクに乗ったことはある?」
「昔、一度だけ」
「OK。腕を僕のベルトか肩に置いといて。カーブでは僕の体に合わせて体重移動してね」

太い木につかまる子熊のように、私はジョージの胴体に腕を回した。エンジンがかかる。ここからどれくらいかかるの、と尋ねようと思った瞬間にはすでに走り出していた。

バイクの後部座席から見える景色は、思ったよりも高い位置だ。日没後に残った最後の明かりが西の空に消えていく。幹線道路を抜けて瀟洒なカフェやタウンハウスが立ち並ぶ通りに入り、ずらりと続く街路樹の太さと高さを驚きながら私は眺めた。市街地よりも住宅街に入った方が、より外国らしさを強く感じる。

夜のシドニーの空気はやわらかく湿気を含み、思ったよりも温かい。と思ったら、雨が降り出した。小雨であってほしいという願いもむなしく、雨脚は徐々に強くなった。

「車じゃなくてごめんね!」
叩きつけてくる雨粒の間から、ジョージが大声で謝った。
「大丈夫!」
ヘルメットとストールで窒息しそうな私は、それだけ答えるのがせいいっぱいだった。

走っていたのは15分ほどだろうか、とある交差点の角にあるWoollahra Hotelという建物の前でジョージはバイクを停めた。中からはドラムとギターの音が漏れ聞こえてくる。

「さぁ、行こう」

ヘルメットをバイクケースにしまうと、ジョージはにっこり笑った。ウルルで見た、これから起こることが楽しみで仕方ないといった笑みだった。

しっかりとしたドアを開けると、音楽とアルコールと暖かい空気とが混ざり合って私たちを出迎えた。
フロアにいたのは3~40人といったところか、ほとんどが50代以上のように見えたが、皆グラスを手に思い思いに体を揺らしたり、ペアでダンスを踊ったり、じっくりと壁際に佇んで音楽に聞き入ったりしている。

「ワインでいい?」
「あ、いいよ自分で買う」
遠慮と少しばかりの警戒感を感じて私は言ったが、ジョージは太い人差し指を立てて私の目の前で振った。

「昨日誕生日だったんでしょう? 誕生日ならプレゼントを受け取らないと!」
押し付けがましくないその好意は、素直に受け取っても良い気がした。私はうなずいた。
「ありがとう、じゃ赤で」
ジョージはウインクし、バーテンダーに赤ワインを注文した。

「ヘイ、ジョージ、元気かい?」
白髪の男性がジョージに近づき、肩を叩いた。振り向いたジョージは嬉しそうに彼を軽くハグした。
「フィリップ、元気そうだね。こちらはMiya, 昨日誕生日だったんだ」
「そうなのかい、ハッピーバースデー!初めましてMiya」
フィリップと呼ばれた男性は私に手を差し出した。私も笑顔でお礼をいいつつ握手した。タイミングよく、バーテンダーがグラスを差し出してくれたので、私たちは乾杯した。

音楽のせいで、お互いの声は怒鳴らないとよく聞こえない。それでもジョージはこの店の常連のようで、人々はジョージを認めると嬉しそうに話しかけてきた。ジョージが紹介してくれるおかげで、1時間ほどの間に私は5~6人から誕生日を祝福された。もちろんその場かぎりの挨拶のようなものだとわかってはいたけれど、それでも誰かに名前を呼ばれ、「誕生日おめでとう」と言ってもらえることは、この土地に来て50時間ほどしか経っていない身にとってはとても嬉しいことだった。音楽に自分の聴覚とリズムを合わせ、軽く体を揺らす。この場所、この空間、この音楽の一部に同化していくことが嬉しかった。

「そろそろ帰ろうか」

音楽のセットがいったん終わったところで、ジョージに促されて私は外へ出た。ワインと音楽と人々のさざめきとで、私の頭はふわふわしていた。たった5日前に知り合った人が差し出してくれるものを受け取っただけで、今日一日がとても良い日になったことに私は驚き、あまりにもラッキーだったことに、むしろ何か裏があるのではと心配になってきた。今日という日が自分にとってどういう意味があるのだろうと考えながら、私はヘルメットを差し出したジョージに尋ねた。

「なんでそんな親切にしてくれるの?」

ジョージは少し驚いたように私を見たが、にっこりと笑って言った。

「シドニーが好きなんだ。だからこの街に来る人に、シドニーを好きになってほしい」
「でも、雨の中ここまで連れて来てくれて、ワインも奢ってくれて、人に紹介してくれて…。私は旅行者だし、お金もないし、何もお返しなんてできないのに、なんか申し訳ない」

ジョージは私を見つめていた。私の中に何かの種があって、それがどういう種類なのかを知ろうとしているみたいだった。

「僕は30年間教師だったんだけどね。生徒に教える時、いつも思ってた。この子たちがいつか、誰かに親切にできる人になってほしいって。感謝してくれるのは嬉しいけれど、僕にお返しをしようと思わなくていいよ。僕は君より十分長く生きてるし、移民としてこの国にやってきて、これまでいろんな人に助けられて来た。いつか君がどこかで迷っている若い子をみつけたら、その子にワインをおごってあげればいい。相手が若いイケメンならもっといい」

私は笑った。ジョージの提案はとても正しいことのように聞こえたし、それを素直に受け取りたいと思った。

「ありがとう。今日、とても楽しかった。昨日ひとりぼっちの誕生日、正直つらかったから」

「明日は?」

「え?」

「明日は何か予定があるの?」
「特にないけど…、早く仕事見つけなきゃ。図書館行って、ネットで仕事探しかな」
「でもそれ一日中やるわけじゃないでしょう? よかったら午後からボートに乗らない? シドニー湾の近くにヨットがあるんだ」

私は目を見開いた。最低な誕生日から一転、祝福のプレゼントはまだ続くようだった。

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