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PERSONAL SPORTS HISTORY

今の自分になる上で、自分の過去が絶対に外せない…のだけど
いちいち出会った人に一から説明することなどもないし、ただ今の自分が”なぜ”このような人間で、仕事観で、スポーツ観(と言う言葉は正確にはないので、なんとなくで何が言いたいか感じ取ってもらえれば)なのかというのは知ってもらいたい気持ちもあるので、誰かが見てくれたらいいなと思い書いておく。
(※主観のみです、あしからず)
(※ポツポツ追記・修正します)

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実業団のサッカー選手の父と、50近くまでやってたんじゃないか?なバスケ狂の母の間に長女として生まれる。
父は一応、関東リーグでベストイレブンを取るくらい、JSL2部に昇格したけど、その年にたしかアキレス腱切って引退してる。
ということで、現役バリバリの時の父のことは知らない。
加えて家庭の力関係が完全に母>父だったので、サッカーの家庭内地位が低い。
父は土日に草サッカー行くには、娘を連れて行くのが条件だったし、
父のチームメイトに可愛がってもらってもいたけど、試合前のサロメチールの匂いと、試合中ピッチ脇で砂遊びをしたことしか記憶にない。
ただ、親子間のキャッチボールがわりがサッカーボールのパスなので、止めてインサイドキックは今でも自然にする。
ちなみに運動神経は両親の割に特筆すべき点がない、なかなかの期待外れ。

子供のスポーツへの関心は、家庭がとても影響する・バスケイズ至高家庭


小学2年生のクリスマスごろから、ミニバスをはじめる。
ママの好きなスポーツ穢すようなことしたら許さないからね。という怖い言葉に、しませんという誓約を立てた上で…
小5くらいで、背丈でなんとなくフォワードだったのが、ポイントガードにコンバート、面白さを知る。シュート決まるよりゲームメイクしてハマる方が楽しかった。
卒業文集には、将来バスケの選手になると記載。
(身長が165cmまで信じてたら伸びると思っていて、現JXのポイントガードになりたかった)

バスケ選手になりたいと考えた時、自分の生まれた地域が不利であると理解
強くない地域
自分は不運なだけで、才能はあったゴリ(スラムダンク)でもなさそう
裕福ではない家庭で中学越境を、12歳で親に頼む覚悟
インターネットがない時代の小学生の情報収集力

中学は越境…など頼めるはずもなく、学区の中学に進学・バスケ部に入部。
一つ上の先輩がミニバス経験者・ミニバスで関東大会出場経験あり多
自分たちが、ミニバス経験者少なく華々しい戦歴もない・初心者部員20名
一つ下の後輩が、ミニバス経験者・ミニバスで関東大会出場経験あり多

完全な谷間の世代、初心者チームは1年たってもロクにコートに立たせてもらえないけど、勝つよりも全員が試合に出ることに意義があるという顧問の旗印を信じ、先輩が引退したら自分たちもバスケができる!と派手な子も大人しい子も皆一丸となって頑張る…も、自分たちの代に変わった途端

勝つことが大事。勝つために強い人間を出す(すなわち一年生)
に方針変換。

同級生の大半が退部およびグレる。
自分は部活を辞めたらバスケをする場所がなくなる(親の社会人チームに練習に行くことはできるけど、中学生の世界観ではドロップアウトに等しかった)から残ったけど、仲間が去るまでに自分たちの学年だけ廃部を宣告されたり(された部屋の外で1年生が周回ランニングしてるのめちゃくちゃシュールだった)顧問の先生との話し合いの場で、この程度の時給でやってるほぼボランティアなんだよと逆ギレされたり、他の先生に先生にも事情があるんだよと話も聞かずに言われたりいろいろありましたが。
経験者だったので、実力と言うより経験者という響きからか試合には出ていたけど、あんな最低な試合で、最低のプレーを意図的にして、でも仲間の気持ちはめちゃくちゃ背負ってて、みたいなのはあの期間だけだったと思う。

そして、ポイントガードとして生涯最高ゲームは、中学の体育の試合が一番ゲームメイカー冥利に尽き、今でも練習から試合が終わるまで覚えている。

あと、大概体育会系・イケイケと、文化系・大人しいでクラスメートは体育祭で溝が顕著になるという仮説。(私の人生の中では定説)

ここでの学びは
当時の中学生の世界観では、部活を辞める=そのスポーツでの先を閉ざされる感覚で100か0かの選択肢しかなかった
20人もバスケットやりたいと入部してきた子達が辞める世界
体育祭ノリノリの体育会系vsその押しつけ感にうんざりの文化系

高校は、もうこれ以上バスケを嫌いになりたくなかった・意義がわからない謎の先輩への過剰な気遣いに辟易して、バイト生活。

そんな中出会ったのが、スキー。
元々ファミリースキーはやっていたものの、テレビで放映された冬のエクストリームスポーツの世界大会@苗場で、スキーでビッグエアを飛ぶ姿に衝撃を受け、そして即座に自分がビビリすぎるからここまで飛べるようにならないと計算し、イベントの裏方として選手を支える仕事をしたい!と目標設定。
そこから山や人工スキー場に足繁く通い、ネットの掲示板も駆使してネットワークを築く。
オフトレーニングとして知ったアグレッシブインラインやスケートボードの世界にも入る。

体育会系ではないスポーツの世界を知る
行動基準がスタイルがいいかわるいか(かっこよさ)の、競技スポーツとは違う基準
”かっこいい”は原動力になる
上下関係の規律もなく、ウェーイで挨拶がすむ感じ
競技スポーツから新しい可能性を求めて・窮屈すぎて・ドロップアウトしてなどの背景から入っている人もいる

専門学校はスポーツビジネス学科ウィンタースポーツ専攻で、人生第一弾の師に巡り合い、スポーツビジネスの裏方からデザイナーに目標がシフト。
とはいえ、いきなりデザイナーにはなれないだろ。ということで、スキー場のホテルに就職して、長野県民に。
現地でプロスキーヤーの方達と関わらせてもらいながら、デザインの機会をいただいて修行。
矜恃はともかく、収入面だけでドライに言ってしまうとプロ(当時のフリースキーでの基準は物品以上のスポンサーの有無)=サイドビジネスor超本気の趣味、という現実も知る。
一方で、このスポンサーがついたら一流の証となる(当時はoakleyとredbullがつくこと)高いブランド力を持つ存在を見て、ブランディングとマーケティングいうものを考える機会にもなった。
貧しいのに増えていく自宅のoakleyグッズ…。

スポンサーついたらプロを名乗れる=物品提供の世界
外国のトップ選手はランボルギーニに乗る、
日本は、収入面で生活費はバイト・就職して、プロ活動は副業な現実
セカンドキャリア
ブランディングと、それを使ったマーケティングとは
ブランドを買うとは、商品以外のものを買う行為でもある

東京でデザイナーとして1年働いた後、お声がけいただいて某スポーツ協会のお仕事をいただく会社で、大会の会場映像演出からグッズの企画・売り子まで、なんでもやった。
野球サッカーの背後にあるマイナースポーツ・実業団スポーツを知り、前者が圧倒的レアケースであることがわかった。
中東の笛によるオリンピック予選やり直しという場面も目の当たりにし、世間の盛り上がりそして忘却する様も見てきたし、世間がもう忘れているのに、いつまでも”あの!”と言ってしまう業界の中枢の人たち、そんな残酷なズレも見てきた。
競技人口を増やそう。という動きを見るたびに、中学で競技から離れていってしまった同級生を思い出し、
ナショナルトレーニングシステムでトップ選手の指導書に関わらせてもらいながら、1回戦負けレベルのチームに思いを馳せていた。

幸運なことに、FCBarcelonaのハンドボールチームとお仕事する機会を得、バルサの練習場シウタ・エスポルティバ・ジョアン・ガンペルを見学・撮影できたことは素晴らしい経験だったし、何よりFCBハンドボールチームOBの方々とお食事し、レアルはうんこだ!というお話を聞けたことが、その後スポーツ社会学への興味の起点となっている。

とにかく、中の人が自分たちのスポーツは素晴らしい・見てもらったら好きになってもらえる。と本気で信じていた。
私はそれが気持ち悪かった。極端な話学校でクラスの半分が体育苦手で、体育会の人たちのことを苦手としていた。
クラスのカースト真ん中にいて、あちこちフラフラしていた自分にはそうゆう景色が見えていたからこそ、見てもらったら好きになれる。という感覚の傲慢さを感じてしまっていた。
でも、スポーツエリートでここまで上がってきた人たちに、そんな言葉が通じるわけもないと、諦めていた。
もう2度とスポーツ業界の仕事はするもんか。と思って仕事を辞めた。


この後、主にバルセロナでフラフラ数ヶ月過ごすなどをしたのち、結局またスポーツ業界に戻り、今に至る。

過去経験してきたこと・感じてきたことから公式を抜き出すと、今スポーツを取り巻くいろいろなものに共通する問題だったりして、なぜ?どうして?こうしたらどうなる?がずっと消えない。
私の人生は、そのなぜ?どうして?こうしたらどうなる?をどれだけ検証してから死ねるか。みたいのが、今や目標になっている。

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