【読書メモ】女子マネージャーの誕生とメディアースポーツ文化におけるジェンダー構成ー
女子マネージャーの誕生とメディア
ースポーツ文化におけるジェンダー構成ー
高井昌史(著) ミネルヴァ書房
はじめに
本記事はあくまで読書メモであり、以後の振り返りのために引用を多用し、考察を記載しています。
グレー部分は個人の所感で、本文中の内容ではありませんのでご注意下さい
2020年のお盆連休はこの本読み終わるのでいっぱいいっぱい…
序章:女子マネージャーの誕生とそのアンビバレンス
1.新聞記事から浮かぶ疑問
- 女子マネージャーを巡る3つの疑問
①女子マネージャーと、その増加についての問い
元来男子運動部には男子マネージャーが存在していて、女子禁制の世界だった
女子禁制から、参加の権利を獲得した(権利の拡大)
…現在:女性の役割的な認識に?
#Kutooで女性のハイヒール着用についてのムーブメントもあったが 、ハイヒールは諸説あるものの男性の履物としての起源説も有力である
男性向けであったものを、女性も着用をしだしいつの間にか女性のもの、女性に時に強制が発生するものに変化している。
女子マネージャーしかり、今や女性の負担となっているものが、かつては先進的な、獲得した権利だったという流れがひとつの公式として存在する可能性を示唆している?
②メディアの問題
③女子マネージャーのやりがいについて
2.既存のスポーツ/ジェンダー/メディア研究
3.新しい視点の導入
- ホモソーシャルな集団と『境界』のアンビバレンス
男性同士の絆
→女性を排除することで生まれる(女性嫌悪;ミソジニー)
ただし男性集団は『ホモソーシャルで』であって、『ホモセクシャル』であってはならない。すわなわち、同性で集団を作ってはいるが、同性愛者であってはならない。よってホモソーシャルな集団には常に、強い同性愛嫌悪(ホモフォビア)が存在している。ホモフォビアとミソジニーがワンセットになって、『ホモソーシャル』という概念が生まれる男性中心社会の原動力。
何かを引き合いに、土台にして自分たちの立場を明確にする心理作用を生んでいる?
- 女子マネージャーを取り上げる意義
女子マネージャーは当初、男子選手や保守的な考えを持つ現場教師には歓迎されなかった。『男だけの集団に女がいるのは良くない』という思想から
女子マネージャーの誕生は、当初は女性の”進出”であった可能性。男性だけのものだったスポーツの、参加資格を一つ得たのでは?
4.本書の構成
- 女子マネージャーの誕生
- メディアの中の女子マネージャー
- アイデンティティ
第一部:女子マネージャーの系譜学
第一章:戦中戦後の男子マネージャー
1.男性スポーツ集団の歴史
- 戦前の男性スポーツ集団
男性集団は歴史や伝統を持っており、過去からの連続性の上に位置づけられている。すなわち、男同士の絆は現在の運動部員たちをつなぐだけではなく、伝統によって過去と現在をも繋ぐものとされていたのだ。男性スポーツ集団は、現在の友人のためだけでなく、過去に部に在籍していた先輩たちのためにも戦うものであり、それが男たちだけの伝統を作り上げていたのである。
現在も歴史ある強豪校に見られるOB会の介入は、上記の男性スポーツ集団のあり方から介入することも介入されることも”当然”と考えることができ、歴史や伝統が過去と現在を繋ぐ触媒=改革・革新はまさにそこを揺るがす思想であるということ。戦前の男性スポーツ集団は、その男同士の絆・強固な上下関係、そして時に見られる暴力などを特徴としていた。N.エリアスとEGダニングの説でいうと、スポーツの文明化の過程で、『暴力のはけ口』から『厳格なルール』と『暴力性』を共に兼ね備えたものに変化していった
- 戦後の男性スポーツ集団
かつての『暴力性』は近代スポーツの厳格なルールに抑圧された中の『高揚感』へ変化し、集団スポーツにおける男たちの一体感を創出するものであっただろう。暴力性や女性蔑視的態度が段階的に削ぎ落とされていっているものの、男同士の絆に女性が関わることが許されていない。賞賛されるべき男だけの世界、男同士の強い絆を作り上げていっているのである。
聖域を形成していた?上記をふまえると、甲子園に女子選手が未だに参加できない(ベンチ入りが許可されるのにも時間がかかった)背景がよくわかる
- 男子マネージャーの役割と男同士の絆
- マネージャーと男子運動部の一体感
1960年以降、女子マネージャーが登場するようになる
- 選手と男子マネージャーの連続性
女子マネージャー ‖ 隔たり ‖ 選手
女性マネージャーと選手の間に連続性はない
男子マネージャー
怪我などでプレイを断念した
体が弱い・運動が苦手などで元々プレイはしない・できない
マネージャーが人員不足などにより、プレイヤーへ
男子マネージャーと男子選手の間には連続的な側面がしばし見られる
- 戦後運動部の復興と男子マネージャーの誇り
そもそも集団が強い団結力を築こうとする場合、集団の『外部』を作ろうとするケースが多い。すなわち、集団の『外部』があるから『内部』ができ、それによって『内部』の結束力が高まるのである。昭和20年代男女共学の実現によって、学校社会には男集団にとっての『外部』である女性たちが登場したが、この時代の結束力を強めた要因は、女性たちの登場よりも『戦後の運動部がおかれた困難な状況』と考えられる。男たちの共通体験が『男同士の絆』を強め、ホモソーシャルな集団の団結力を高めた。
第二章:女子マネージャーの誕生
1.男性スポーツ集団の女性観
(不快感が強く、タイピングできず・・・)
男子マネージャーを登用するかどうかの議論であったら絶対出てきていなかったであろう考え方がたくさん溢れていた。
女性の話になると、基準が『女性用』に自然と切り替わっていることに気づいていないのが、ミソジニーのミソジニーたる所以と感じる。
『女子マネージャー』になった途端、雑用をするのが当然と頭が切り替わっている。 女子マネージャーを入れるかどうかという『問題』もいずれ起こると言っている。 女子マネージャーができた途端、自分たちがしなければいけない仕事も頼んでしまうと思う。部員はボールを縫う仕事など下積みを経験したほうがいい→女子マネージャーがいてもやればいいのでは?(女子マネージャーがいたらやらなくなる精神を鍛え直したほうが???) 精神的なもの・伝統は男子マネージャーに教わった。(=女子マネージャーには伝統を紡げない。というメタメッセージ) うわついて変な方向に行く。(浮つくのは『男子部員』であるにもかかわらず、女子マネージャーが悪いという論調…痴漢にあったのは誘うような格好をしていたからだという論調と同じ理屈?)
女子マネージャー否定派
→『女が入るなどもってのほか』
女子マネージャー肯定派
→『別に女性が入ってもいいが、ただし運動部の中でのジェンダー秩序は守ってほしい』
否定派・肯定派で共有
→『女子マネージャーに指導的役割を求めるのは無理』
対して、男子マネージャーには指導力のある男子マネージャーを期待し、『マネージャーに命令され、叱られて鍛えられたもんです』と語る。
加えて、セクシュアリティの問題として
『女性を気にしてプレイに集中できなくなる』
『女性への意識が良い方向に転べば、選手のプレイに張りが出る』
すなわち、セクシュアリティが部員にもたらす影響を議論もしている
2.男性集団への参入とジェンダー
家庭における性別役割分業の構図(賃労働を担う夫と家事労働を担う妻)が、男性スポーツ集団に組み込まれた仮説は十分に成り立つ
現代になり、女性も何事においても『プレイヤー』であることを望み、徐々に平等に権利や機会が与えられるようになった今、プレイヤーである男性/お世話をする女性という『分業』が成立しなくなっている。しかし、男性は旧来の姿をあるべき姿と捉えているからこそ、女性の『プレイヤー化』は義務の放棄・権利の主張をしているように感じられてしまうのか?これは以前別の記事で書いた“差別する側・マジョリティ・力のある方・有利な方…この題材の視点では男性だけど、常に差別される方”じゃない方”は、問題に無自覚である。(なぜならばその人の目の前に問題は起こっていないから)”で、男性がなぜそう思うかの説明はできると思う
3.セクシュアリティの変容
- 女性の視線
終戦直後の時代の女性には、野球部のしごきは野蛮な行為としか映っておらず、女性に対して嫌悪感を抱かせるものであって、決して女性を魅惑するものではなかった。高度成長期の頃から、男性集団への強い思考が生まれ、男性集団たちの魅力に女子マネージャーたちが魅惑されるという構図ができあがったものと思われる。
日本人の社会意識において、高度成長期は敗戦による価値観の一挙転換を大きく凌ぐ規模と深さをもっていたのではないか。男らしさの価値観が『内面こそが男の価値を決める』から『でもやっぱり、外面も大事だ』という方向へ向かってシフトしたという分析。そして開放的な社会の風潮があったからこそ、男性スポーツ集団・選手のみせる禁欲的な態度・男同士の友情が光を放った可能性。
- 男性の視線
昭和初期の男性
男性集団は男同士で集団をなしてはいるが、それはあくまでホモソーシャルであって、ホモセクシャルであってはならない。
したがって彼らは自らがヘテロセクシャル(異性愛)であることを強調しなければならないのだが、禁欲思想はその意味において非常に有効であった。もちろん、禁欲思想には『女性蔑視』という側面があるのだが、それと同時に自分たちがヘテロセクシャルであることを前言説的な次元で表現するという意味もあるからだ。〜中略〜 したがって、禁欲思想は『女性排除』、『女性蔑視』を前面に出しつつ、自分たちがヘテロセクシャルな男性であるというメタメッセージを前言説的な次元で伝えている。
複雑な男性集団の構造が理解できた。おそらく女性より相当複雑。まっすぐ出せず、最終的にメタメッセージで伝える、なんとも面倒な構造になっていると感じた。同時にこの構造では、ホモソーシャルの集団の中で価値観を共有できない(女性蔑視などで外部の存在を作り、内部の結束力を高める方法などに馴染めない)男性や、ホモセクシャルの男性は、想像しているよりも遥かに苦しい状況になっていたのでは…と感じた。
高度成長期の男性の視線は、ヘテロセクシャルであることの表出が『禁欲』といういびつな形態から、日常的な女性への思いとして変容していったのである。
- セクシュアリティの困難
4.女子マネージャーの誕生と学校文化の変容
- 進学率の変容
- 大学受験戦争と高校運動部
5.女子マネージャーの誕生とホモソーシャルな構造
第二部:メディアにおける女子マネージャー像の構築
第三章:新聞報道の『女子マネージャー観』の揺れ動き
1.新聞メディアへの登場
2.女性問題の報道に関する先行研究
3.女性の社会進出論調と女性排除の論調の衝突
- 1960年代のマネージャー言説
男性集団による女性蔑視、女性排除的な意見があからさまに見られるが 〜中略〜 『女子マネージャーを認めるべきか』という問題を社会に提起しているのである。
女性は、男性に許可や承認を頂かないと参加ができない場面は、今もまだ残っている。
60年代、社会の開放的な雰囲気とは裏腹に、学校運動部はまだまだ保守的なしきたりを残していた。このような状況で好意的に報道されているのは、男になろうとする(女性としての性的魅力を捨てようとする)女子マネージャーである。
女子マネージャー是非論での非で出てくる意見は、『風紀上の問題を起こされては』という意見が根強かった模様。
いわゆる不純異性交遊を恐れていた、ということだが、不純異性交遊は双方の意志があって起こることにもかかわらず、メタメッセージとして女子マネージャーの側に原因があるように伝わる言説をしている点が気になる。
今まで男性だけの集団であったときはそんな問題は起こらなかったのに、女子マネージャーが入ってきたことで風紀が乱れた。という言説は一見正当に見えるけれど、前に述べたとおり双方の意思のもと不順異性交遊が行われる関係においては全く正当ではない。女子が誘惑する。という反論も容易に想像でき、そんな女子はいない!とも言う気はないが、実際存在する確率で考えたら多様性として考慮する必要があるのかもわからない確率では?
更に少し毒づくと、精神論や根性論が強いこれらの場面において、女子マネージャーがいることで揺らいでしまうこと、それをより強い精神を育む機会ではなく排除の方向で考えることに違和感はないのだろうか。また、『女性としての性的魅力を捨てようとする女子マネージャー』は、現代の名誉男性の問題と同じだと感じる。
- 男性スポーツ集団との関係性
4.1960年代の報道から70年代への流れ
- 『女子マネージャー肯定論』の変容
1960年代は女子マネージャーの是非が一つの論争を形成していたが、1970年代に入り大きな報道の転換期を迎えた。60年代では『女子であっても男子の領域へ進出した(すべき)』という論調であったものが70年代では『マネージャーは女性的な仕事だから、女性がやるべきだ』という論調にシフトしている。つまり、女子マネージャー肯定論において『女であるにもかかわらずマネージャーになることはすばらしい』という議論が『女なんだから、マネージャーになることはすばらしい』という議論へ変化同じ肯定論者であっても、前者は革新的であり、後者は性別役割分業に適合的な考え方をしている。
60年代の『男性集団の一員になりたい』『男並みになりたい』という描かれ方(ジェンダー)からメディアの中でスポーツの世界で『男性を支える女性』『男性を癒やす女性』というイデオロギーが生まれ、そのように描かれるようになったのは、実は70年代以降である。(ジェンダー+セクシュアリティ)
- ジェンダーとセクシュアリティの融合
第四章:少女漫画のなかの女子マネージャー
1.少女が見る女子マネージャー
2.1970年代における女子マネージャーマンガの特徴
- マイノリティとしての女子マネージャー
- 女性蔑視と二重の性役割分業
- 選手と女子マネージャーのコミュニケーション関係
3.恋愛の困難とホモソーシャルな構造
4.少年マンガへの移行
1980年代以降は女子マネージャーマンガが姿を消し、多くの女子マネージャーは、少女漫画ではなく、少年漫画のヒロイン、もしくは脇役として登場するようになる。1970年代の、少女たちの生き方として、ひとつのモデルになった少女漫画の主人公である女子マネージャーから、少年にとっての女子マネージャーに大きく変化している。
5.少女マンガにおける『男の友情』の相対比
1980年代以降、女性は監督、あるいは女子選手としてのマンガに登場することが多くなっている。
第五章:新聞における『女性差別論調』の登場
1.新聞報道と『女子マネージャー物語』の拡大
1980年代以降、マンガのなかの女子マネージャーは少女マンガよりも少年マンガにより多く登場するようになった。それと相関するように、高校野球の雑誌や広告にも女子マネージャー、もしくは少女がキャラクターとして登用されるようになる。『男性スポーツ(特に高校野球)を応援する若い女性』というモデルが強調された。
2.2つの差別論争
- 女子マネージャーと女性差別問題
差別論には大きく分けて2つある
『女子マネージャーとは、社会における男女差別、家庭における性役割分業の反映である』
『女子マネージャーの存在は、社会の性差別を助長する』
…フェミニズム的論争
『部の一員であり、部員とともに汗を流す存在でありながら、全国大会という公の舞台では排除されてきたのは、男女差別である』
…ベンチ入り論争
- 論争が起こった背景
- 差別論争の流れ
運動部の女子マネ、すっかり『主婦役』に 公立高の教師たちが調査という記事から論争が発展。『マネージャーも部活動の一つです。〜中略〜 好きでマネージャーをしている人は大勢います』『マネージャーは女子が多いという現象が、やがては雑用は女性の仕事という考えに繋がりそう、そうゆう社会で苦しくなるのは女性自身だ』『女子マネの仕事や主婦労働など、縁の下の力持ち的な仕事が雑用と軽んじられることには、反発が大きい。その一方で、従来の役割分業について、否定的な考えも強い』これらの議論の経過を見ると、やはりジェンダー問題の捉え方は非常に難しいことを痛感するが、個人的には【不可避研究中】ジェンダー偏差値ゼロからの質問状①の動画の見解がすごくキーになっていて、機会が平等に与えられていること。というベースの概念を双方で理解しないと、その後の事象についていくら議論しても殴り合いになるだけだと思う。
以下例として
(実際は女子野球も地域によってはあるので、あくまで例として)
野球が好き→女性である(→プレイヤーの選択肢がない)
→女子マネージャーになった→プライドや誇りがある
という変遷を経ている女子マネージャーからしたら、女子マネージャーの是非についてのフェミニズム的論争も、自分たちを腐す議論でしかないのは自明。選択を否定するものではなく、まず前提条件をイーブンにするところの議論であることを明確にすることは、今後のフェミニズムやマイノリティの議論において、重要になってくるのではないかと感じている。事象を細かく切り分ける・一つ一つの解像度を上げる訓練が必要。
3.論争が消えた原因
- 高校野球人気の低迷
甲子園の視聴率の低下、部員数の低下(対して、サッカー・バスケの部員数の大幅増加)これらのことから90年代に入って、高野連は子どもたちや女性の間に広がる他のスポーツの人気拡大に対して、大変な驚異を感じていたと思われる。人気低迷の打破、ファン層の拡大をめざし、女子マネージャーにも門戸を開くことで、女性にも開かれた高校野球というイメージをつくることが目的であったと思われる。
栃木県高野連貢理事のコメント
『(女子マネージャーのベンチ入りについて)サッカーに対抗するため、若い女性の人気獲得も必要だ。いつまでも女子を締め出せない』
男性側の都合で禁じられていたものが、男性側の都合で許可される。女性活躍社会などの動きでも感じることだが、無意識の『許可を与える』『お許しを頂く』『保護する』『保護される』という関係性、それにいびつさを感じてしまう。
時系列的に見ると、上記高野連幹部のコメントも、女子マネージャー論争に終止符が打たれたのも94年、その前年93年はJリーグが開幕し、予想以上の大成功をおさめた年である。
女性だけではなく、ハンディキャップのある人・病気の人・LGBTQの人…マイノリティはしばしマジョリティの都合でありながら『善意』の皮を被って引き出される構図はどの場面でも起こっていることで、自分がマイノリティの立場のときには相手に崇高さを求めてしまうのに、自分がマジョリティに属する場面では、きっと自分たちの都合に『善意』を被せていても気が付けない気がする。マジョリティであるときは、自分自身を内省し上記のような偽善ではないかと常にチェックしなければと思っていたけれど、気づけないし、きっとやってられない。そこでモダモダして進まないよりも、優しく指摘しあえる関係を気づくこと・相互理解(間違えることもある前提で)を進める方向にシフトするほうが良いのではないかと考えるようになってきた。このnoteで書いている女子マネージャーのことを、女性という当事者の一人として今すぐ相互理解関係に進めるか。というと、すぐにはなかなか折り合いが付きそうはなく大半の人もそうだと思うので、これもまた訓練かと思います。
- 差別論争の前言説化
知識社会学的に分析すると、注目すべきは『夏の甲子園をあこがれる心に、男女の差はない』という考えが『価値』ではなく、日常的、常識的な『知識』の次元に置かれていることである。対象的に、『グランドは男の聖域』、『野球道と言われる精神論』という思想は、『価値』として相対化されている。したがって、甲子園をあこがれる女性、すなわち女子マネージャーの存在を否定することは完全に不可能である。なぜならば、『知識』とはその存在理由や正当性が問われることはなく、決して批判の対象にはなりえないからである。よって、必然的に『フェミニズム論争』は成立しえなくなるのである。P・バーガーの言葉を借りれば、女子マネージャーという『制度』が『正当化』されるために、夏の甲子園をあこがれる心に男女の差はないという『知識』が大きな役割を果たしているのである。
結局の所、『女子マネージャーは差別である』というフェミニズム的論争にとってもっとも大きな敵は、もうひとつの『女子マネージャー差別論』というベンチ入り論争だったのだ。
女子マネージャという存在自体の是非を問うのがフェミニズム的論争(女子マネージャーの存在を肯定した上で)部の一員なのに、甲子園のベンチに入れないのは男女差別である、というのがベンチ入り論争
女子マネージャーがベンチ入することを肯定することは、イコール女子マネージャーの存在の是非を問うフェミニズム的論争においては『存在を是とする』という結論を受け入れることになる、と理解。同じ属性間でも意見が対立しやすいジェンダー問題は、どのレイヤーで、フローチャートのどの部分について議論するのか明確にする必要があるとも感じた。そこの曖昧さが、二律背反ではない議論を二律背反に仕立て上げてしまう可能性があり、それは決して有益ではないからだ。
このような現象は、女性差別言説による女性差別の隠蔽と言えよう。
そして、『女子マネージャーも参加できる甲子園』という報道がヒートアップし、それが皮肉にも『女子マネージャーの存在は性差別』という思想をさらに前言説的なもの、朝日新聞紙面上で決して語られないものとしていったのである。
第三部:アイデンティティーーーー女子マネージャーの生きがいと物語の創造
第六章:男集団の『境界』を生きる
1.女子マネージャーへの調査
- フェミニズムの議論
- 『境界』という視点
2.女子マネージャー物語の内面化
3.ミソジニー(女性嫌悪)と男性集団の美化
4.ジェンダーが果たす役割と境界
5.女子マネージャーのアイデンティティ形成
- 女子マネージャーという生き方
女子マネージャーになった理由『タッチの南ちゃん』が多い。女性的な役割をこなし、部員からの視線を一新に集める、マスコットのような女子マネージャー。しかし憧れはあれど、現実はそうではなく、またその事実に自覚的である。
女子マネージャーのほんの一側面である、マスコット的存在の部分においては、願望としては『オタサーの姫』と重複する部分があり、また現実に自覚的な女子マネージャー本人よりも、その集団の外部からそう見られる傾向があるのではないか?また、男性同士の絆、あるべき男性集団のイメージを壊す存在(女子マネージャーを惹きつけて止まないのは男同士の絆…男性集団への憧れ)踏み込む存在に対してバッシングを向けがちなことから逆説的に、『腐女子』のあくまで外から見る自分である視点と重複する部分がある可能性は?だからなんだって話でもあるけれど、女性の心理傾向の共通項みたいなものが複数の事象のかぶる部分を見ていくと、見えたりしないのかな?という疑問。
- 意図せぬジェンダー強化
女子マネージャーの現実のドラマは、『境界』があってこそ初めて可能な物語。男性集団の男同士の関係性に憧れる女子マネージャーという図式は、その逆がほとんどありえない。『女性集団』『女同士の友情』『女同士の関係性』というものにあこがれる男性という図式は極めて成り立ちにくい。男女の非対称性がある。
第六章:『男』になることの困難
1.男性スポーツ集団への参入
2.男性集団の一員になれない男
彼にとって大切なことは、決してホモソーシャルな集団の一員として一体感を得ることではない。〜中略〜 しかしそのような彼の姿勢は、やがて先輩マネージャーから糾弾されることとなる。
やがて彼はマネージャーをやめ、チームを去っていく。結局ホモソーシャルな集団の一員になれず、自らの理想とするマネージャー像に近づくことも許されなかったのである。
ホモソーシャルな集団では、ホモソーシャルのルールに乗ることができれば非常に結束強い仲間の一員となれるかわりに、多様性への寛容がない。境界の外、『外部』である女子マネージャーには許されていても(そのかわり混ざることは許されていない)、男子マネージャーに関してはホモソーシャルのルールに乗る以外許されておらず、『内部』であるべき存在がゆえに圧力も強いのではないか。女性の自分が想像するより、男性のマイノリティが苦しい可能性は前に記載しているが、ここでまた一つ根拠となりうる事例が出てきている。リップマン=ブルーマンの議論の重要な点は、ホモソーシャルな集団から疎外され、周辺化されるのはじょせいだけではないという指摘である。ホモソーシャルな集団のしきたりに適応できない男性、あるいはそれを拒否する男性も含まれているのである。
3.『男』になることの困難
終章:女子マネージャーをめぐるジェンダー構造
1.誕生・メディアの物語・アイデンティティ
2.女子マネージャーをめぐるジェンダー構造
- 『ホモフォビア』と『ミソジニー』
男性スポーツ選手や男性サポーターなどにホモフォビアおよびミソジニーが共有されているという指摘は、多くの論者によってなされている。
グッドマンは、『ヨーロッパやアメリカの大衆文化では、スポーツの苦手な男子は、よく性的なやじでからかわれる。激怒しているフットボールのコーチは、押されがちなディフェンスには「金玉」があるならあるらしくやれと絶叫する。イギリスの「サッカーフーリガン」は相手の選手やファンに「おまんこ」だとか「イギリス人の尻の穴にぴったりのマスかき野郎」だとか叫ぶ。フランスやイタリアのサッカーファンも同様に、時bンたちの男らしさの自慢をしたり、相手がそうでないことをあざわらったりするときは、猥褻な言葉を発する。』
また、女子マネージャーも男同士の関係性がホモセクシャルなものではなく、男の友情、すなわちホモソーシャルであってほしいと考えているのだ。むしろ、それは『彼らがホモセクシャルであるはずながない』という考えに近い。
男性のマイノリティの苦しさを補強する事象
- ホモソーシャルな集団と女性のセクシュアリティ
- 女子マネージャーの主体性とジェンダーの強化
そしてすでに述べたように、このような関係性は男女で非対称なものである。すなわち、ほとんどその逆はありえないのであり、『女性スポーツ集団に憧れる男性』『女同士の人間関係、女の友情に憧れる男性』という構図はほとんど成り立たないのである。
この部分が、女性スポーツ(特に、観る面において)の今まで・今後を語る上で、そんな気はしていたけど認めたくなかった、希望を持っていたかった部分ではないかと思う。『ほとんど成り立たない』という事実を直視し、別の手法・ゴールを考えていく必要があるのではないか。
以下、全体を通しての所感メモ
女性が制限されていたことに、新しく許可された関わり方が一つのポジションを築き、男性がそのポジションに就くことに違和感が発生するようになる。この行き着く先に、男性がやりたくてもやれない『男性差別』の世界は存在するのだろうか
勤務先が以前の場所にオフィスがあった頃、入社しても短期間で辞める人のが多かった印象。そして『合わない』という理由もよく聞いた。個人的には『ホモソーシャルな集団のしきたり』が『合う・合わない』を生み出していたのではないかと感じた。
ホモソーシャルとは同性に対して持つ同胞意識を好むこと(リップマン=ブルーマン)
本文抜粋:江原由美子の論考
ホモソーシャルな集団と女性のセクシュアリティの項に記載の、異性愛制度とジェンダーの問題についての江原由美子の論考
『「女」が「性的欲望」を持ち、「男」を「性的対象」として見ることも十分あり得ることでさる。しかしある関係が性的関係と社会にみなされるためには「男」の「性的欲望」が条件となる。すなわち「男」が「性的欲望の対象」である「女」に「性的欲望」を持つ場合には、たとえ「女」には「性的欲望」がない場合にも、その社会的関係は性的関係と見なされうる。「女」は「性的欲望の主体」ではなく「性的欲望の対象」としかなれないので、両性間の社会関係が性的関係であるかどうかを定義する力はないということになる。「異性愛」という「ジェンダー秩序」のもっとも重要な構造特性は、この性的関係を定義する両性間の非対称的な力であるのである。』
江原は、R・コンネルの議論に対して次のような批判を加えている。コンネルの議論は性愛関係を互恵主義によって説明しようとするあまり、異性愛的欲望の非対称性(例えば、女性は『安全性』や『物質的利益』のために男性と性的関係を持つ者も多い)を見失う危険性があると。そもそも、男性支配に関する多くの議論において、女性は主体背を持つものとされていない。C・レヴィ=ストロースの議論(もちろん、彼自身はそれを男性支配の議論とは考えていない)では、女性は単なる交換物に過ぎないし、P・ブルデューも、女性は『象徴資本』として男性のあいだで交換されるものであり、それによって男性の『卓越化されたアイデンティティ』が形成されると議論している。江原の議論も、『性愛関係を定義する男女間の非対称な力』を指摘しており、少なくとも女性は異性愛主義の構造の中では『性的欲望の主体』にはなれないわけだ。この議論は、非常に説得力のあるものである。だが、女性が男性に対して持つセクシュアリティ(性指向)は無視されるべきであろうか。セジウィックの議論の中でも述べられているように、女性は確かに異性体主義のジェンダー構造のなかでは、性的な『主体』になれないのかもしれない。しかし、男同士の絆に価値を与えるという現象、その潜在的ホモセクシャル性を隠蔽しホモソーシャルと意味づけるような傾向を問題視するならば、そこには女性のセクシュアリティも加担してると言える。
記録用リンク
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?